SINIC理論によれば次に訪れる「自律社会」では、モノだけでなく人間の知識や感情、心の重要度が増す。では、感情の中でも「負の感情」については、どのように考えるべきだろうか。今の社会では「負の感情」は排除すべきものと捉えられがちであり、そこから進んで「感動」を売り物にする企業もある。今回は神経科学を専門とする下條信輔教授を招き「負の感情」を掘り下げ、心を売り物とする是非について考えた。
怒り、憎しみ、恨み、嫉み、悲しみ、苦しみ、攻撃性……。これらがいわゆる「負」の感情であり、正負の基準は「本人が苦しんでいることです」と下條教授は話を切り出した。こうした負の感情を研究する意義は大きく4点あり、臨床面の必要性、健常者のQOL向上、マーケティングへの活用、人類学的・文明史的関心である。その延長線上には、感動を売買できるのかといった論点も見えてくる。
そもそも負の感情とは、いかなる意味で「負」なのか。
「感情に関する負ということばの意味には以下の3通りが考えられます。第1は個人の不快な感情として、第2は適切ではない、あるいは迷惑などの社会規範的な意味です。例えば怒りで我を忘れるとか溜飲をさげるという場合であり、周りにとっては迷惑ながらも本人にとっては不快ではなく快楽のケースもありえます。第3が不適応という生物学的な意味であり、躁鬱病における鬱、すなわち無気力な気分などです。一般的に負の感情といえば第1の意味で捉えられがちですが、第2、第3の側面も見逃すべきではありません」
続いて下條教授は、負の感情を掘り下げるための参考事例を2つ提示した。事例1は、身内に不幸があり、心から泣いて周囲の同情を集めるようなケースである。この場合、本人の主観レベルでは猛烈に「負」だが、社会規範的な意味で「負」とは一概にはいえない。なぜなら、周りが同情することで本人が立ち直れた場合は「正」の機能を果たしたと考えられるからだ。
事例2は、友人の大成功に嫉妬し、それをキッカケに自分も努力してそれなりの成功を収めるといった事例である。嫉妬は社会規範的に「負」の代表例と見なされるばかりか、本人にとっても不快である。ところがその場では不快だったものの、奮起して成功したのであれば結果的には良かったといえる。まさに諺でいう「災い転じて福となす」や「禍福はあざなえる縄の如し」に相当するケースである。ここで考慮すべきは時間である。分析的思考や実験室における「感情」は時間軸と切り離した断片的な事例として考えるが、日常生活における負の感情は過去から将来へと続く時間軸の中で捉える必要がある。
では負の感情を、生物学的不適応に限定して考えるとどうなるだろうか。例えば躁鬱病における躁状態と鬱状態は、本人にとっては快/不快と正反対のケースが考えられるものの、社会規範的にも生物学的にも「負」に分類される。薬物中毒も同様だ。
そこで下條教授は今日の第1のポイントとして「負の感情といいながらも、負の多様な意味を整理する必要があり、負の感情の意味を掘り下げることが重要」と強調した。
次に提示されたのは正負の感情に似た別の心的状態「フロー」と「チョーク」だ。フローあるいはゾーンとは、感情と理性がポジティブループに入って完全に噛み合った状態を意味する。一方、チョークもしくはイップスとは、ネガティブフィードバックであり「堅くなる」とか「あがる」状態である。
フローに関しては、ネットショッピングをしているうちに「フローに入る」といったケースが報告されており、マーケティングの領域からも注目されている。逆に経済学からは「利得最適化」モデルで説明のつかない状態としてチョークに関心が寄せられている。フローとチョークはいずれも意識の変性状態であり、境界条件は酷似しているにもかかわらず結果は正反対に終わる。フローに入ると実力以上の力を発揮し、チョークに入ると練習では簡単にできていたことが再現できなくなる。フローとチョークが示すのは、感情と理性の複雑な相互作用であり、正負の入れ替わりやすさだ。
フローとチョークの実態を解明するため下條教授らは実験を行った。
「フローに入ると、情動、認知の領野と運動性の関係が強まっていることがわかりました。さらにチームに関する実験も行い、例えばチーム全体がフローに入って神がかり的なプレイをしているときは、メンバーの脳がバラバラに動いているのではないことも明らかになりました。仮にメンバーが3人いるなら、そのチームの脳は1.5人分ぐらいのまとまり(統合)具合になっているのです。一方では、ある行為を成功した場合の懸賞金が大きくなると、プレッシャーが強くなるためチョークが起きやすいこともわかりました。オリンピックで金メダルを取れるかどうか、といった場面ではプレッシャーに負けてしまいがちなのです」
負の感情の別の側面を、下條教授は感情と知覚の緊密な関係から説明する。よく世の中はバラ色だとか、その反対に何もかも灰色にしか見えないということがある。実際に精神疾患を起こしている場合には、文字通り色覚を失っているケースがあるという。感情が色覚に影響を及ぼすのだ。
ほかにも感情により知覚が変わる例としては、高層ビルで火災にあった人には、地上がすぐ近くに見えたため実際の高さを無視して飛び降りたケースや、老人には階段のスロープが健常者より急峻に見えたりする事例が知られている。
これを受けてポイント2として強調されたのが「感情だけを他の機能から切り離して議論することはできない」点だ。負の感情は、情動、感覚、知覚、認知、意思決定、行動などとの関わりの中で考える必要がある。
その上で下條教授は「負の感情はコントロールもしくは排除すべきなのか」との問題提起を行った。
「現代社会では無痛文明化が進行していて、これを人類家畜化もしくは人類のペット化と表現する人もいます。負の感情をコントロールできるなら、それに越したことはないとの意見もあるけれど、それは本当でしょうか」
負の感情といいながらも、「負」には場合によって「正」も含む多様な意味がありうること、感情だけを他の機能から切り離して議論できないことが明らかになっている。従って負の感情は、コントロールできた方が良い場合がある一方では、あえてコントロールしない方が良い場合も考えられる。
そもそも負の感情が、生物学的に不適切なものであるなら、進化の過程で淘汰されているはずだ。統合失調症や自閉症などの精神疾患は、何十世代経っても淘汰されない。この事実を踏まえるなら、負の感情にも何らかの生物学的意味があると考えるべきだ。
参考にすべきは「痛み」である。痛みは身体に迫った危機を知らせるための緊急信号である。信号を受けて痛みを排除する行動を即座に取るためには、極度に不快であることが望ましい。痛みは感覚だが、不快の感情と常にリンクしている。痛覚も進化の過程で淘汰されておらず、生物学的に役立っていることは自明。これに倣えば「負」の感情も安易に除外すべきではないはずだ。
ところが人類は、労働や病気、貧困と身体的苦痛からの解放を求め続けてきた。さらに文明は、生物学的な痛みはもとより精神的苦しみからの解放を追求し無痛化を旨としてきた。
「神経科学的にも、快と不快つまり痛みは表裏一体の関係にあります。セカンドウィンドやランナーズハイとは、肉体的に負荷をかけることにより脳内でオピオイド系の化学物質が分泌されるために起こる現象です。従って『負の感情や痛みの感覚には、進化生物学的な存在意義があるのではないか』。これが今日のポイント3です」
無痛文明化が進む中で、負の感情を排除して手軽に正の感情を手に入れられるようになってきた。これをビジネス化したのが情動マーケティングである。医療や教育、政治の世界でも負の無痛文明化が進み、負の感情が排除されようとしている。既に日本には「感動を売り物にする企業」が存在しており、大手企業でも平気で「無痛化」や「感動の切り売り」をアピールしている。これが今日のポイント4「現代文明は負の感覚・感情を駆逐する」であり、その結果として既に無痛文明化や情動インフレが起こっている。
「以前は感動なんて売れるわけがない、ふざけるなと思っていました。感動は個人の主観領域の話であり、あくまでも偶然の出会いによって起こるものであり、計画的に感動させられるなどという状況はありえないはずです。だから感動を計画して大量生産し、対価を取って提供するなど考えられない。最近まではそう思っていたのですが、残念ながら今はそう思えないのです」と、下條教授は専門家だからこその危機感をあらわにする。
なぜならその人の知識や意思のコントロールに関係なく、人間の脳のメカニズムにおいては情動系に対しては直接トリガーをかけることが可能だからだ。たとえフェイクニュースであれ、恐ろしいテロリズムのニュースが流されれば、恐怖が情動系に植え付けられる。仮に3日後にフェイクニュースだとわかったとしても、植え付けられた恐怖の感情は残る。そのニュース自体が、フェイクであろうが事実であろうが、引き起こされた情動は変わらないのだ。
このロジックに従うなら、情動にトリガーをかけて感動を売ることは可能。そう語る下條教授は「最初は技術的にも、倫理的にもNOだと思ったけれど、今では脳研究の専門家だからこそ、逆に認めざるを得ないというのが正直な意見であり、それが将来に対する懸念ともなっています」と話を締めくくった。
今日のポイント
1.「負の感情」の「負」の多様な意味を整理しないと、先が見えない。
2.感情だけを、他の機能から切り離して議論することはできない。
3.負の感情には、進化生物学(・心理学)的な存在意義がある?
4.現代文明は負の感覚・感情を駆逐する。
PROFILE
下條 信輔氏
1978年、東京大学文学部心理学科卒業、1985年、マサチューセッツ工科大学大学院修了、同Ph.D。1986年、東京大学人文科学科大学院博士課程修了。1989年、東京大学総合文化研究科助教授、1997年カリフォルニア工科大学生物学部/計算神経系准教授、1998年、同教授(現職)。2012年、京都大学こころの未来研究センター特任教授。専門は知覚心理学、視覚科学、認知神経科学。著書に『サブリミナル・マインド』『<意識>とは何だろうか』『サブリミナル・インパクト』『ブラックボックス化する現代』など。
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