社会・技術・科学の未来を描き出すヒントを得るために、先進的かつ独創的な未来ビジョンを持った有識者へのインタビューを行う「未来スコープ」。
第3回目の今回は、「定常型社会」というキーコンセプトで持続可能な福祉社会の可能性を提唱する京都大学こころの未来研究センター・広井 良典教授に、未来社会における新たな生き方、政策、経済・経営等への展望を伺った。
私が注目しているのは「拡大・成長」から「定常化」に移るときに “文化的創造”とも言うべき非常に大きな意識変化が起きるということです。
たとえば狩猟採集社会が拡大・成長から定常期に入った時期は、「心のビッグバン」とも呼ばれる時代で、洞窟壁画や装飾品、工芸品などが一気に現れます。日本では縄文土器が発明された時期と重なります。私は八ヶ岳南麓の遺跡群によく足を運ぶのですが、縄文土器は本当にすごくて、どのような精神状態でこういうものを生み出したのかと考えてしまいます。料理に使うには飾りが邪魔になって仕方ないのですが、そのような実用性を飛び越えた「遊び」や「創造性」、つまり人間の「心」が生まれていたのではないかと思えるのです。
2度目のサイクルとなる農耕社会の定常化への移行期は、宗教が生まれた時期と重なります。ドイツの哲学者ヤスパースが「枢軸時代」と呼んだ時代で、紀元前5世紀前後、今から約2500年前ですが、ギリシャ哲学や仏教、儒教や老荘思想、キリスト教やイスラム教の原型であるユダヤ教など、普遍的な原理を志向する思想が世界のあちこちで生まれました。こうした宗教思想が同時多発的に生まれた理由は、農業文明というものがある種の資源的・環境的な限界に至ろうとしたからではないかというのが私の仮説です。実際、当時のギリシャやインド、中国などでは農耕文明が進んだ結果、森林の枯渇や土壌の浸食が起こっていました。そこで、自然を搾取して物の生産を量的に拡大する方向性ではなく、文化的・精神的な豊かさといった別の価値をつくりだす必要があったのではないかと。
「拡大・成長」から「定常化」へ、というサイクルの枠組みで捉えてみますと、現在は産業革命以降から続く3度目のサイクルの定常期にさしかかっていると言えます。ただ、本当に「定常化」へと移行するのかどうか、疑問を投げかける声もあります。
例えば、最近はやりのシンギュラリティ論や書籍『ホモ・デウス』、映画『トランセンデンス』といったような「ポストヒューマン」的な未来イメージ。不老不死や意識の永続化、人工光合成による究極のエネルギー革命、地球脱出や宇宙進出がそう遠くない未来に実現すると言う人もいます。こうした未来社会のイメージは、私のつくった枠組みでは、一見すると第3の「定常」期を飛び越えた、第4の「拡大・成長」期に相当するようにも見えます。ポストヒューマンを目指し、さらなる「拡大・成長」を続けていくのか?というのはいろんな人と議論になるところです。
シンギュラリティ論やSF映画などは個人的には面白く見ていますが、限りない拡大・成長をさらに目指すというシナリオは根本的には解決にならないというのが私の考えです。それらは一見非常に新たな方向であるように見えて、実は近代社会のパラダイム、つまり個人が利潤を極大化し人間が自然を支配するという世界観を極限まで伸ばしていったものに過ぎません。つまりそれらは旧来の発想を引きずったものであり、真に革新的な思想を考えるならば、むしろこれからは「定常化」する社会として持続可能性の方向性を考えていくべきでしょう。それが個人の「幸福」にもつながると思います。
2017年9月に公表した「日立京大ラボ」との共同研究では、AIを活用して持続可能な日本の未来に向けた政策提言を行いました。149の社会要因の因果連関モデルをもとに2万通りのシナリオのシミュレーションを行った結果、日本社会の未来にとっては「都市集中型」シナリオを選ぶのか、あるいは「地方分散型」を目指すか、が大きな分岐点であることが明らかになりました。
都市集中型シナリオでいくと、一極集中がさらに進行して地方は衰退します。出生率の低下や格差拡大がさらに進行し、個人の健康や幸福感は低下しますが、政府支出の都市への集中によって政府の財政は持ち直すというメリットもあります。
地方分散型のシナリオでいけば、地方へ人口が分散することで出生率は持ち直し、格差も縮小して、個人の健康寿命や幸福感は増大します。しかし政府の財政悪化やCO2排出量の増加などの可能性も含むため、このシナリオを持続可能なものにするためには注意が必要です。
いずれのシナリオを選ぶにせよ、8~10年以内に選択し、必要な政策を実行しなければなりません。
持続可能性の観点からより望ましいのは「地方分散シナリオ」です。しかしこのシナリオを実現にするためには、これまでの拡大・成長型の経済・経営モデルから脱却し、持続可能性や循環、相互扶助といったことに力点を置いた経済・経営のあり方を目指すことが必要になります。
経済や経営と、倫理とは、一見相反するように見えますが、近代化する前の社会では実は重なり合っていました。近江商人の「三方良し」や二宮尊徳の「道徳と経済の一致」という考え方が良い例です。「日本資本主義の父」とも言われる渋沢栄一も著書『論語と算盤』を通して倫理とビジネスの両立を説きました。「根源の社」を建てた松下幸之助を始め、高度経済成長期の経営者には何らかの信仰を持っている方が多くいます。考えてみれば、経営者というのは全ての責任が最後自分にかかるわけですから、究極的に孤独な存在とも言えます。大きな意思決定をするときの拠り所として経営と倫理や信仰心が結び付いていたのかもしれません。
それが80年代に入ると、金融資本主義な流れともあいまって、経済=利潤極大化という方向が強まり、経済と倫理は完全に分離していきました。それが2000年代、とりわけ2010年代に入ってもう一度、経営と倫理が再融合してきているような印象があります。いわゆるソーシャルビジネスや若者の社会貢献意識、ローカル志向の高まりなどの新たな動きが生まれています。
よく尋ねられるのは、「定常化」した社会は、変化の止まった非常に退屈な社会ではないのか?ということです。それは全く違うということを強調しておきましょう。
例としては少し古いかもしれませんが、たとえばCDの年間総売り上げは一定量であっても、ヒットチャートの内容は常に変化していますよね。量的に拡大しないということは、変化がないことを意味するわけではないのです。量的に拡大しないから退屈だという考え方は、いわばモノだけにとらわれた物質経済時代の発想です。情報の経済以降はヒットチャートの例のように、量としては一定ですが変化や創造性はどんどん生まれるのです。
もっとわかりやすい例を言えば、たとえば京都というまちを見てください。京都の人口は現在約144万人ですが、これは昭和43年頃に140万人になって以降ほとんど変わっていない数字です。でも京都が退屈な社会だなんて誰も思っていませんよね。量的に拡大はしていませんが、クリエイティブなコトが次々と生まれています。「伝統と革新」はむしろ補完的なものなのです。
実は、定常型社会における経営や経済の考え方は、日本の経営史を振り返ってみても日本人にとってはむしろ馴染みやすいものなのではないかと思っています。他を差し置いてとにかく自社の利潤を最大化するというのは、長い歴史から見ると最近の一時的な現象に過ぎない。規模を大きくすることと、経営を長く続けるということ、どちらを選ぶか?と言われたら、長く続くほうを選ぶ、と言う経営者は結構多いのではないでしょうか。ノルマを増やせ、規模を増やせ、と言うよりも、量が増えるかどうかはわからないけれど個人が自由に好きなことをやっていこうという発想のほうがはるかにクリエイティブですし、おそらく結果的には経済としてもプラスになると思います。
人間の未来は、「拡大・成長」から「定常化」へと移行できるかどうかにかかっています。そのためには現在の社会システムや人々の価値観に対抗する全く新たなパラダイムが求められます。私は「地球倫理」というものとして考えているのですが、それは先ほどの「心のビッグバン」の時代に生まれた、根源にある自然信仰を再発見するとともに、枢軸時代に生まれた普遍思想の多様性を地球の環境的多様性とあわせて俯瞰していくような新たな思想です。
ちなみに以上のうち前者の「自然信仰」は、日本での“鎮守の森”、つまり自然の中に単なる物質的なものを超えた何かが存在しているという自然観ないし生命観とつながっていると思われ、私自身は数年前に「鎮守の森コミュニティ研究所」というネットワークをつくり、自然エネルギーや地域と結びつけた活動をささやかながら進めています(以下のホームページ参照。http://c-chinju.org/)。
いずれにしても、真の意味での持続可能性を実現するためには、心のビッグバンや枢軸時代の普遍思想に匹敵するような、新しい観念や哲学が生まれる必要があるのです。
人類史は、人口や経済が大きく「拡大・成長」する時期と、それが「定常化」するというサイクルを繰り返しながら進んできています。このサイクルはこれまで3回ありました。
最初は約20万年前に人類が誕生して採集狩猟社会が生まれ、人口が増えましたがその拡大規模が約5万年前にいったん定常化しました。
2つ目のサイクルは1万年前、メソポタミアあたりで農耕が開始した頃に再び人口が増えて、紀元前5世紀ごろに再び定常化しました。
3度目の「拡大・成長」期は300~400年前、いわゆる近代化が始まり、工業社会に突入した時代。その後、市場化、産業化、情報化、金融化を経て現在に至るまで続いてきたサイクルです。
PROFILE
京都大学広井 良典教授
1961年岡山市生まれ。京都大学こころの未来研究センター教授。専門は公共政策、科学哲学。厚生省勤務、千葉大学法経学部教授、MIT客員研究員等を経て、2016年より現職。著書に『定常型社会』(岩波新書)、『人口減少社会という希望』(朝日選書)、『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』(岩波新書)など多数。『日本の社会保障』(岩波新書)でエコノミスト賞、『コミュニティを問いなおす』(ちくま新書)で大佛次郎論壇賞受賞。
シンギュラリティやホモ・デウスはいかにも“未来らしい”壮大なビジョンである。しかしそこで人類は「精神的な進化」を遂げているのだろうか?結局は量的な拡大・成長を目指す旧来のパラダイムから脱していないのではないか?という広井先生の問いかけは、除夜の鐘のように胸に響くところがあった。
私たちは自然や地球環境を変える力を持つことが人間の固有性であると思ってきたふしがあるが、本当は、自然への影響力や有限性を「自覚」できるという点に他の動物には無い人類の固有性があるのではないだろうか。その自覚こそが広井先生が提唱する地球倫理や自然信仰につながり、第4周期目の人類史のサイクルを始めるにふさわしい真に新しいと言えるパラダイムとなりうるのかもしれない。
(聞き手:澤田美奈子)
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