MONOLOGUE

2022.10.03

手をとりあえる、コンビビアルな自律社会へ


なんと一〇ヶ月ぶり、かなり久しぶりの独白となります。じつは、「独白する暇あったら原稿書けよ」という日々が続いていました。そして遂に、先週9月29日に『SINIC理論』という本を日本能率協会マネジメントセンターから上梓しました。
https://pub.jmam.co.jp/book/b611158.html

初めての単著、どこから手をつければよいかもわかりません。編集者の方に「これから、どのくらい原稿を書く必要があるんでしょうね?」と恐る恐る問うと、「まあ、一〇万字は必要でしょうね。それ以上ですね」と言われて卒倒寸前。そして、上梓し終えた今も、何冊も次々に本を出せる著者の人たちは、ほんとうにすごい能力の保持者だと実感しています。たぶん、僕には最初で最後の一冊でしょう。

コラムの延長線上と高をくくっていたのが大間違い。一〇〇〇〇字の壁を越えるのも容易でなく、途方に暮れて、何も進まない日々が続きました。

それでも、発刊まで辿り着けたのは、やっぱり編集者のおかげです。そしてもう一つ、「本を書いています」と他者に言ってしまったことです。「やっぱり書けませんでした」という恥をかきたくない、僕にも、まだそういう気持ちがあったのですね。二つの理由に共通するのは、自分ではない「他者」の存在です。

そこで思い出すのが、人類学者ベネディクトの名著『菊と刀』です。日本人は「恥の文化」という有名な説です。中学生時代、初めて読んだ時に、そういうものかと思いつつも、なにか釈然としない気持ちが残った記憶があります。「他人が見ていなければ、日本人は平気で非道徳的なふるまいをする」という「他人の目」の縛りだけを強調した「恥の文化」という論旨に対して「ほんとかよ?!」と感じたのです。そうだとしたら「お天道様はお見通し」という言葉は無いはずです。

ベネディクトは、日本人の恥の文化に対して、西洋人の「罪の文化」を対置したわけです。西洋人は神様の目という絶対基準に基づいて自らを律しているというわけです。これも「ほんとかよ?!」でした。

「分ける」ことは、余計なノイズを取り払って、スッキリわかりやすくなるようですが、じつは本質まで取り払ってしまっているように感じます。そして、得てして、どちらがよいか優劣の問題に化してしまいます。だから、僕は「分ける」よりも「重ねる」ことの価値を大事にしたいのです。重ねてこそ、見えてくる本質があるのではと感じることがあるからです。

この「恥の文化」と「罪の文化」の話題の場合、洋の東西を重ねたところにあるのは、人であっても神様であっても「他者」という存在ではないでしょうか。競う相手としての他者というよりは、手を当ててくれる他者という存在です。人は弱いけれど、人は他者の支えがあれば、もっと自分を活かせるということではないでしょうか。誰かの支え、誰かの励まし、誰かのいる安心、僕は、これこそ「自立した個人がつながり合って、さらに活きる自律した生き方」なのではないかと考えています。これこそ、自律社会というコンビビアルな社会への道筋だと信じています。

あっ、しまった。この久しぶりの独白、上梓した本を紹介するつもりだったのに、かなり脇道に逸れてしまいました。でも、こんな逸脱談義を繰り返しながら、みなさんと共に「自律社会」に向かう道筋を考えたいという願いを込めた本のつもりです。ぜひ、手にとって、つまみぐいでも構いませんので目を通していただければ幸いです。そして、感じたことを寄せていただければ、とてもうれしいです。どうぞ、よろしくお願いいたします。

ヒューマンルネッサンス研究所 所長
中間 真一
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