思い返せば、僕が子供のころから、家には畑があった。その畑仕事を手伝うのが、なんとも嫌だった記憶がある。なにせ、便所からくみ取った肥を畑にまく仕事だったりするわけだから。
我が家は農家ではない。父は長年、公立高校の理科教員を勤めていたし、母も一時、定時制高校の家庭科の教員を勤めていた。しかし、我が家にとって、畑というのはごく当たり前のものとしてあった。
父は60歳で定年を迎えたのち、私立学校の理科教員に請われ、80歳になるまで講師を勤めていたという、理科教員一筋の人生を送る。80歳で、なくなくリタイアしたのも、本人の希望ではなく、ドクターストップであった。ある日唐突に、大腸ガンのため余命半年という宣告が下ったのである。
緊急入院後、父はなんとか体調をもちなおした。もともと飄々とした性格であったのだが、ガンとわかってからは、その飄々ぶりに磨きがかかったように思う。父の病気が判明してからは月に一度、千葉の実家に様子を見に行ったのだが、学校に行かなくなった父はこれまでの自分の理科教育をまとめなおす作業に没頭し、そのかたわら、畑を耕しつづけていた。
「理科教師は科学を"よし"として教えてきた責任がある」
様子伺いに実家に戻った僕に、父はそんなことをよく語った。化学分野で、教え子との共同研究で数々の賞をもらい、リタイア直前まで大学の研究者と共同研究をするような父(死後、アミノ酸の人工合成に関する共著の論文が出版された)がそのようなことをいっていたのだ。フロン、ダイオキシン、そして原発。科学技術の生み出した暗部を父は見つめていた。
余命半年と宣告されたものの、結局父は2年を生きた。その半年後、東日本大震災が起こる。
「お父さんが生きていたら憤死したかもしれない」
原発人災の報道を前に、母と僕はそのような会話をかわした。
父が亡くなってからは、毎月一回、今度は母のもとへ顔を出し、一緒に夕飯を食べ、そして父の代わりに、小さな畑の世話をする。雑草をぬき、トマトの支柱を立て、積んでおいた枯草を燃やし......と。ただ、母も老いた。畑作業がままならなくなったため、ついに畑を地主に返却することになった。かわりに自宅の庭にごく小さな畑を耕すことが、つい最近の帰省のときの仕事であった。おそらく、立ち歩くことができる限りは、どんな形であれ畑は続いていくのだろうと思う。父と母にとっては、暮らすということの中に、土地を耕し、作物を育てる行為が、ごくあたりまえのものとしてある。
千葉の実家から、沖縄に戻る。それからしばらくして。とある理科教員の集まりの様子を見る機会があった。
「これからの時代、科学技術こそが......」
発表の中、そうしたことが声を大にして言われていることに驚いてしまった。
理科教員の自主研修の活動紹介のスライドの中に、原発関連の施設の入り口で、記念写真に笑顔で収まる集団を見て強い違和に襲われる。
まだ、そうしたことが続いているのかと。
その一方。
珊瑚舎スコーレで、東条雅之監督自らが上映する、『祝福の海』という映画の上映会が開かれた。
冒頭の自然分娩に携わる助産師さん。塩づくりと自然農を続ける家族。そして30年にわたり上関原発に反対運動を続ける祝島の人々と、放射線被害の中、福島で生きる人々の姿。
様々なことを考えた。
何より、登場する人々の笑顔が印象に残る。さらに、食事の場面のおいしそうなこと。自宅で飼っている鶏の卵を使い、父親自作の醤油をかけた生卵ご飯をおいしそうにかきこむ幼い姉妹の姿がうらやましい......。自分のまわりには、自分も含め、すてきな笑顔の人々はいるだろうか。おいしい食事をしているだろうか。そのために必要なことは何か。『祝福の海』は、3・11後の世界をどう生きるか、たちどまり、考えさせ、勇気づけてくれる映画であった。
遠い過去、父と生垣の落ち葉を集め、畑で作った焼き芋の記憶を思い出した。