6月23日の慰霊の日。沖縄では休校日である。が、僕が少し前まで講師をしていたフリースクール、珊瑚舎スコーレでは、登校日となっている。その珊瑚舎スコーレの、慰霊の日の特別授業に参加させてもらった。
珊瑚舎スコーレは昼間部と夜間部がある。昼間部は不登校の中学生の通う中等部と、高卒認定試験をめざす生徒たちの通う高等部が主体である。夜間に開設されているは沖縄戦の前後、義務教育を送れなかった方々が通う夜間中学である。その夜間中学の生徒たちも、年々高齢化しつつある。今年の特別授業では、夜間中学の生徒たち3名が、昼間の中高生たちからの質問に答える形で、戦中・戦後の体験を語るというやりとりが企画された。
夜間中学3名の体験は、それぞれである。
両親が仕事のために移住した大阪での、空襲体験を語った男子夜間中学生。また、地上戦は行われなかったものの、当時、猖獗を極めていたマラリアの感染地への疎開によって親を失い孤児となってのちの体験を語った八重山出身の女子夜間中学生。さらに南洋諸島に生まれそだった女子夜間中学生の体験談が語られた。
南洋諸島に生まれた少女の父は、島々を巡る客船の船長であったという。少女は本を読むのが好きで、将来は物書きになることにあこがれていた。ところが、戦火が激しくなり、父親は兵隊にとられてしまう。残された家族は本土を経由し、故郷である沖縄に引き上げることになった。そこで地上戦に巻き込まれる。
逃げに、逃げて。最後、一週間、飲まず食わずの状態だった。どこにも隠れる場所がない農道を歩いている時、100メートル先に砲弾が落ちて、行列の先頭だった人の頭が飛んで自分の足元に転がった。自分もなんだかあったかいねぇと触ったら、血がでている。しかし、この後すぐに捕虜になって命は長らえることができた。このとき一緒だった母親の背中に背負われていた弟は栄養失調ですでにこと切れていた。収容所で治療を受けたが、このとき母親と別々になったため、親に再会するまでの2年、孤児として暮らすことになってしまった......。
「今でも砲弾の破片が2つ、体の中にあります」
そんなふうにも言う。
「戦争のことを忘れたいと思いますか」
昼間の生徒たちから、そんな質問が夜間中学の生徒たちに投げられた。
空襲で三度死にかけた夜間中学生が答える。
「忘れたいけれど、忘れたらいかんでないかなあ。二度と起こってほしくないし。子どもたちや孫たちに味あわせたくないし」
続けて八重山出身のマラリアのために孤児になった夜間中学生が答えた。
「忘れようと思っても忘れられない。戦争がおこったとき、残された子どもが一番みじめ。そのつらい気持ち、うんと味わっている。二度と戦争はあってほしくない。辺野古の新基地もいらない」
そして南部戦線を逃げまわった夜間中学生も、その問に答えた。
「その時は、助かるために、死体を飛び越え、飛び越えして逃げました。人の死体は、ものすごく臭い。普通の豚や牛が腐ったもの以上に、人が腐ったものは臭い。その臭いは忘れられない。二度と戦争はしちゃダメ。絶対ダメ」
絶対にわからないことがある。そのことを思う。
僕には、人の死体の腐った臭いを思い浮かべることができない。その臭いを生涯忘れられない思いとして抱えつつ、生き続けるとはどういうことかを本当にわかることはできない。
体験したものでないとわからないことがある。そうしたことがあるということを、しっかりとわが身につなぎとめておきたい。
戦争を実体験したことがないはずの年代の人が、軽々しく、戦争を語る場面にでくわすことがある。その人たちの、「私はわかっている」といわんばかりの語調に、違和を感じる感性を鈍らせないようにしなくてはと思う。それが、夜間中学生の生徒たちから、僕たちに与えられた宿題だ。