「答え」「方法」を知りたがる学生
2006年、インターンシップの授業に携わるようになった当初、学生が「なぜ、どうして」「どうやって」を直ぐに質問してくることに驚いた。最適な答え、効率的な方法を手っ取り早く教えて欲しいという姿勢である。
インターンシップ先については「放置プレー」という表現を使って、日常業務で忙しく、構ってもらえない、目をかけてもらえない、教えてもらえないことを批判していた。教えてもらって当然、教えてもらってないことはできなくて当然。「教えずしてできなかったことを指摘するなら、最初から教えてくれればいいのに」というようなことも言われていた。
その彼らが社会に出て、若手として活躍しているが、人事担当者からは「すぐに結果に結びつかないことはやらない」「評価にならないことはやりたくないと言われる」と指摘されている。
二つの「自信」への危惧
近年、気になっているのが「自信のなさ」である。謙遜からくるものではなく、不安、不安定さがその背景にあるように思う。我々は新しい体験をするとき、失敗をしながら少しずつ成功し、「自分にもできるのだ」という自信を積み重ねていく。
できそうなことを失敗しないように積み上げていくことは、一見、効率的、効果的な成功体験である。しかしその反面、やったことのない新しい多様な体験と失敗が少なくなる。
また、若者の特権である「根拠のない自信」も薄れているように思う。「自分ならできるかもしれない」「何とかなるだろう」「とにかくやってみよう」というような姿勢である。
失敗しないように成功体験を積むので、周りからの評価は高い。良くできる学生と見られている。しかし、本人はいくら周りから評価されても何か満たされず、新しい体験に対して「やってみよう」という一歩を踏み出す自信につながらない。自分に対する自信、自分という存在そのものに対する受容が充分でないように思う。
仕事や職場の基準による弊害
大学で学生のキャリア支援に携わるようになって一番に思うのは、社会に出る前の学生時代に、それまで体験しなかったことで、体験しておいた方がいいことにチャレンジできるよう背中を押すことである。学生は失敗がいくらでもできる。社会にでると失敗が評価に結びつき、失敗しにくくなる。
失敗しながらも新しい体験をし、「自分にもできる」という自信の幅と厚みをつけていくことである。この種の自信をつけるには、あえて目標やハードルを低く設定し、「できる」という実感を得ながら、目標やハードルを上げていく方法もある。そして「自分にもできる」という自信が、「自分に対する自信」「自分という存在そのものに対する自信」にもつながっていく。
しかしながら、既に多くの学生が効率的、効果的に体験を積み上げることを「善」として生きてきている。大人の仕事や職場の基準が、子どもや学生の生活にも持ち込まれ、すぐに結果に結びつかないことが、大学以前の生活の場で置き去りにされているように思う。
「それをやるとどんな意味があるのか?どんなことが得られるのか?」という問いかけよりも「まずやってみては?」と言う方がいい。
仕事や職場の基準による弊害
教育がサービス産業化しているという指摘がある。サービス産業は効率・効果、成果重視の世界である。学生はいずれその世界に入っていく。その世界ではなかなか大切にできないこと、置き去りにされてしまうことを、家庭や学校といった教育の場で救っていく方がいいように思う。人間性を育むこと、人生を豊にすることは、すぐに結果が出る類ではない。その時は意味が分からない体験でも、後々になって豊かな人生経験につながっていくことがある。
社会に出る一歩手前の大学では、効率や効果を指向するが故に避けられてきた、もしかしたら失敗に近い経験を支援することと、社会での厳しさを部分的に経験できるように支援していくことのダブルの取り組みが必要だと思う。学生一人一人のそれまでの体験から、どちらの支援に重点を置くかなど柔軟に対応していくことが求められる。それが大学における個別(対応)化であり、大学生の学生時代におけるキャリアを支援することだと思う。