大学3年のゼミ生たちを個別面談して、来年の卒論のテーマについて聞く。
びっくり。
理科や生物をテーマにしよう......という学生が、今の時点では誰もいなかったから。まだ、きちんとテーマを絞れていない学生もいるが、話を聞くと「特別支援教育」とか、「教育と郷土芸能について」とかを考えているという。なるほどと、思う。
今年の卒論生も、もともと理科や生物に興味を持っている学生は1,2名といったところだった。ゼミ長のAからして、大の虫嫌いだ。彼女はテーマ決めから難航していたが、ようやく決まったテーマは、「なぜ自分は虫に興味がないのか」だった。あらら......と、最初は思った。
蓋をあけてみると、そんな彼女と卒論を通じてのやりとりが、おもしろい。
思い返してみると、Aは虫といってすぐに思い出すのは、アリ、チョウ、セミ、ゴキブリぐらいだという。しかも、「セミはセミ」としか認識がない。つまり、虫嫌いというより、虫オンチなわけだ。
「そんな私だって、小学生時代は、虫についての授業を受けたはず......」と、彼女はまず、教科書に登場する生物がどんなものかをすべて洗い出す作業から研究を始めた。教科書は本土仕様である。洗い出された生物が、沖縄にいない場合もありうる。例えば、小学校3年の理科の教科書にはトノサマバッタやキアゲハが登場するが、沖縄ではトノサマバッタはレアだし、キアゲハはまず見ない。自身の虫オンチの原因が、教科書に登場する生物が身近な自然内容とかけ離れていることと関係はないか。そのような仮説をたてたのだ。
「ねぇ、ゲッチョ、カタバミって何? 虫? それとも植物?」
ところが、仮説の検証は、彼女にとって「セミはセミ」どころか、「草は草」であることも判明してしまう結果となった。カタバミは、本土だけでなく、沖縄にもふつうにみられる雑草だ。それこそ、大学の構内にも生えている。そうした身近な草の名前(おそらく存在も)知らない......ひいては、草はひとまとめに草と認識していたことを自覚したという次第だ。結局、彼女は虫オンチなのではなくて、生物オンチであるわけだ。
Aは沖縄の中でも都市化の進んだ那覇出身である。しかも、県庁近くという、那覇の中でも中心街育ち。そうした生まれが原因なのか。あれこれ、調べ、考えるうち、自身の「生物オンチ」の背景に、自然環境が欠落している生育環境の影響があることはぬぐえないと、彼女は分析した。
しかし、彼女だけが特別なわけではない。彼女が同級生にアンケート調査をしたところ、76%の学生が、カタバミを「知らない」と答えていた。つまり、多くの学生が生物オンチであるわけだ。そして、そのような生物オンチでも特段、日常、困らないのが現代社会なわけである。
「生き物なんて、自分に関係ないって思っていた」
そのことに気づいたとAは言う。自分に関係があると思う自然とは何か。無縁と思っていた自然に対して、どのような見方を持てば、関係が生まれるか。彼女の問題意識は、そのように発展していく。
例えば、教科書に出ている虫が身近にいるとは限らない。
例えば、校庭に生えている草が身近なものであるとは限らない。
自分に関係があると思う自然......言い換えれば、「身近な自然」とでもいい得るものの正体は何か。彼女のたどり着いた疑問点こそ、僕がたえず気にかけている問題だ。
ちょうど小学校で虫の授業を頼まれたので、Aを伴い出かけてゆく。僕の授業の中で、子どもたちがどんな教材(虫)に反応したかを観察することで、「身近な自然とは何か」という問に対して、彼女に何かヒントを示せないかと思ったのだ。ゴキブリ、ムカデ、巨大なクモ......授業の中で、子どもたちは僕が繰り出す「嫌われ者」の虫たちの標本に大騒ぎをしていた。嫌われ者の虫たちは、そうであるがゆえに、自然体験の薄い子どもたちにとっても、なにがしかの知識や体験が伴っている存在である。また、「キモチワルイ」「コワイ」といった要素があるがゆえに、子どもたちの感性に強くうったえる何かも持つ。そのような虫こそ、都市部に暮らす現代社会の子どもたちにとって、身近な自然の一つの例なのではないか。僕はそんな風に思っている。
「なんで、理科を勉強しなきゃいけないんだろう」
Aは、研究途中で頭をよぎった疑問を論文の一節に紹介している。
身近な自然とは何かをさぐるのは、そもそも、この問に答えたいがためである。30年前、初めて教壇に立った時から、僕はその問いに対して、どのように答えうるかを考え続けてきた。
ところが、ふと立ち止まって考えれば、僕が関わってきた夜間中学の生徒さんは、きわめてシンプルにこの問に答えてくれていた。「学ぶことで、新しい自分になるから」と。
何かをするのは、直接的な見返りがあるから。そのような風潮が広がりつつある。知ることに、どんな(直接的な)見返りがあるのか......と問われてしまうと、うろたえる。知らなくたって困らないと開き直られれば、なお当惑する。しかし、いつから知は商品のような存在として扱われるようになってしまったのか。はたまたいつから知らないことが誇れることになってしまったのか。そのようにして知を放擲することで、結果として自分を誰かに売り渡すことにはつながらないか。
最終的に、Aは、「どうしたら虫や草に興味を持てるか」という視点を持つことで、初めて虫や草に興味を持つようになったと僕に語った。それまでの彼女は「虫や草になんて興味がない」という地点にずっと、居直り続けていたのだ。ところが、そんな彼女が、自身が変容しうることを受容した。
夜間中学の生徒さんの一言に教わり、虫オンチの学生の変容に教わる。
Aは4月から小学校の教壇に立つ。この小さな体験が、どこかで生きることを願う。