FUTURE SCOPE

2019.03.01

こころに働きかける技術と自律社会~認知神経科学のフロンティアから~

カリフォルニア工科大学・下條 信輔教授

下條 信輔教授

 自律とは何か、科学はどのようにあるべきか。「認知神経科学」の第一人者CalTech下條信輔教授に、人特有の意識のあり方から最先端の神経科学、それらを踏まえた上でこころに働きかける技術のゆくえ、そして新たな「自律」のあり方について伺った。

「自律」の意味を掘り下げる

 SINIC理論では、2025年から「自律社会」が始まるとされています。その定義は、自分らしさの発揮と他者との協議が両立する社会ですね。ただし「自律的」という言葉から、人間を自発的かつ利他的に社会に貢献する存在と、単純に受け止めるべきではないと思います。
 まず科学に関する議論においては、マックス・ウェーバーが主張した「価値自由」の主張のとおり、「価値的」な話と「没価値的」な話を区別する必要があります。科学も技術も、それ自体は本来「没価値的」なものであり、その使い途が決まった段階で価値的な問題が出てくるのです。だから、科学技術で生活を快適にしますという域を超えて、人間を倫理的に自律的に良くする価値があるという話しに対しては、基本的に警戒心が先に立ちます。
 例えば「負の感情」について考えてみましょう。苦しみや嫉妬、怒りなどの負の感情は無くすべきだ、というのは価値的な判断です。そこで一歩引いて、負の感情を科学的な視点で捉えるとどうなるか。負の感情など無いほうが良いのだと価値判断するのではなく、「進化の過程で、なぜそれが淘汰されなかったのか?」と考える。すると、いまだに残っているのは、ヒトという種の生存戦略として意味があるからだと考えられるわけです。負の感情は文脈によっては役に立っていますし、また仮に負の感情をすべて排除すると、ポジティブな感情もなくなってしまいます。
 もう一点、考えるべきは「負の感情」あるいは「正の感情」というとき、その正負は誰が、どういう基準で決めるのか?という点です。結局のところ、正負や善悪などは相対的な判断でしかない。仮にある人が何かに嫉妬しているとして、その妬みをバネにものすごい努力をする場合もあるわけです。この場合などは一人の人間の中に、負の価値観と正の価値観が同居しているとも言えます。
 少し観点を変えて生活環境を例にすれば、空気フィルターを使って浄化するのは一般的に良いこととされています。けれども、免疫系が弱るから、そんなことはしてはいけないと主張する医師もいます。外に出られる程度に健康なら、外に出て陽光と外気にふれる方がいいのかもしれない。ことほどさように、善と悪には安易にコミットするのは危うい難しさがあることを認識すべきです。

「三日坊主をクリア」すべきか

 健康関連の企業が「このデバイスがあなたの生活を変えます、これを使って三日坊主をクリアしましょう」などとアピールしています。確かに私自身も三日坊主だから納得する一面、そのデバイスを使えば価値観まで変わりますとまで言われると、余計なお世話だと思ってしまう。
 Amazonのレコメンドなども典型的です。何か買えば「次にこれはいかがでしょう」と勝手に勧めてくる。そのうち衣食住をはじめ生活のあらゆる局面で、おススメを押し付けられると、私たちはどんな気分になるでしょうか?
 人間の幸せって、かなりの部分が「コンテクスト・ディペンデント(文脈依存的)」なものです。それまでの経験や周囲の状況次第で好みなど簡単に変わるのです。しかも人間は順応する生き物でもあります。食べ物だって、好物ばかり食べていたら飽きちゃうでしょう。田舎の一軒家の旅館、インターネットはつながらないしカラオケもなんにもないようなところが、信じられないくらい流行っていたりするのはなぜでしょう?要は状況によって好みは変わる、そう考えれば続けられることだけが良いとは限らない。三日坊主でもよい面もあるのです。

「タブー」のリスク

 日本独自のカルチャーについて考えてみましょう。何かにつけて、すぐに「タブー」をつくるのが日本の特徴です。『失敗の本質―日本軍の組織論的研究』を最近読み直してみたのですが、第二次世界大戦のときの日本軍には「この作戦は非現実的だ」とか「初戦で負けたら、プランBは?」などとは言い出せない空気ができていたわけです。
 福島原発も同じ構図じゃないでしょうか。東電社員の間に「もしも巨大津波が来たらどうなってしまうだろう?」などと、誰も言い出せない空気が醸成されてしまっていたのではないでしょうか。
 そこで危惧するのは、テクノロジー系のメーカーでも同じようにタブーが形成されることです。例えば、体温調節がうまくできるデバイスが何か開発されたとしましょう。そのとき「体温調節できるのは、本当に良いことだけなのでしょうか?」と問える雰囲気があるかどうか。そのあたりが、タブーや「負の感情」に関する研究が必要と考える所以です。HRIの未来への科学技術社会論研究テーマとして大いに価値があります。

潜在と顕在、人間独自の認識システム

 潜在と顕在、心の無意識的な認知のレベルと意識に上る部分との関係性あるいは相互作用について考えてみましょう。意識の表層で起きていることと、無意識レベルで起きていることは違う。まずこの大前提を認識してください。
 つまり無意識レベルで起こっていることこそが原因であり、意識に上ってくるのはあくまでもその結果に過ぎません。これが人間の認知の特徴であり、我々は結果に過ぎない意識しか認識できないのです。
 だから、仮に何かを選んだ場合、意識に上ってくる理由と無意識下で選んだ理由がまったく異なることもあります。これを「原因の誤帰属」と呼びます。心の深層で何が起こり、それが意識に上った段階ではどう変わるのか。技術開発にしてもユーザー心理にしても、無意識レベルでの情報処理と、意識に上る部分の相互作用を理解する必要があります。

「ポストディクション」に着目する

 意識と無意識に関して、もう一点考えるべきなのが時間軸の視点です。これに関して、私は最近“Postdiction: its implications on visual awareness, hindsight, and sense of agency”あるいはまた ”What you saw is what you will hear: Two new illusions with audiovisual postdictive effects”といったタイトルの論文を書いてきました。ポストディクションとは「あと付け再構成」のことで、プレディクション(予言・予測)の逆です。
 例えば脳の活動を調べれば、ある人が数分後にどのような食事を選ぶのかを予測できるといいます。マーケッターが興味を持つのは100%プレディクションであり、神経科学者や心理学者もプレディクションで仕事をしている。プレディクションの確率が高いほど良いというわけです。
 一方でオーディオやクルマなどの高額商品を買ってから、そのパンフレットや広告を一生懸命に見る人がいます。これがポストディクションで、自分の選択の正当化をあと付けでしているわけです。人間とは、常に自分の選択を正当化したい生き物なのです。
 実はポストディクションによって、主観的な満足度が決まり、次の行動(選択)も決まります。だからポストディクションを知れば、プレディクションが可能になる。プレディクションが未来に向かう矢印だとすれば、ポストディクションは自分の過去の再整理です。
 人間社会は、数十ミリセカンドオーダーで起こる短いプレディクションとポストディクションに加えて、数カ月単位の長い時間スケールに至るまでのプレディクション、ポストディクションによってできているのです。にもかかわらず、ポストディクションについては、これまでほとんど誰も注目してこなかったのが実状なのです。
 もう一点考えるべきは、前述したコンテクスト・ディペンデンシー(文脈依存性)でしょう。マーケティングでは既知のことですが、人には他人の価値観を取り込む傾向があります。美人にモテる男性は、(それを観察している)他の女性からの人気も高まるのです。
 ファッションの流行に関する研究からは、次のような知見が明らかになっています。最初に5%ぐらいの人が珍しい装いをし始めると、続いてそれを真似する人が10%ぐらい出てくる。都合15%ぐらいの人が珍しい格好をしている段階では、自分もやるという人が30%ぐらい出てくる。ところが8割ぐらいの人が同じような格好をし始めると「もう嫌だ」と今度は流行から降りる人が出てくる。これで「流行り廃れ」のダイナミクスがシミュレートできるのです。

「シェアド・リアリティ」からの解放をハイブリッドな自律で

 絶対的な善や悪はあるのでしょうか?仮に、生物学レベルで寿命を伸ばす知見が得られた場合に、文句を言う人はまずいないでしょう。けれども寿命が伸びるのは絶対的な善なのかといえば、人口過剰や高齢者医療費の問題を考えなければならない。寿命が伸びることですら、安易に価値判断すべきではないはずです。
 ところが、寿命を議論することに対するタブーがあると、反論できなくなる。そして寿命が伸びるのは良いことだと繰り返し言っているうちに、いつの間にかそれが心理的リアリティーになってしまう。これは「Shared Reality」と呼ばれ、人々の間で共有されたリアリティー、つまり情報が実体化して事実になってしまう。原発神話が典型的なケースですが、生活の質から健康機器のレベルまでShared Realityが安易に形成されていく社会は危ういのではないでしょうか。人と機械の「自律」という方向性が、社会の均一性に向かうことを危惧してしまいます。
 そこで注目すべきは多様性です。人間である限り多様性を忘れてはならないのです。実際に、多様性や個人差は、神経科学や生物学といったサイエンスの世界のホットトピックスであり、個人差の生物学的理解は重要な課題となっています。
 こうした状況を踏まえてもう一度「自律社会」の話に戻ると、これから考えるべきはハイブリッドな自律ではないでしょうか。機械と人間を二項対立や、独立した自律化の対象ととらえないほうがよい。人間が機械化、拡張化していく中で、機械と人間とのハイブリッドな自律というものを考えるべきだと考えます。さらにその先の「自然社会」は、いよいよ興味深くなってきますね。HRIの未来研究に期待しています。

下條 信輔教授

PROFILE

カリフォルニア工科大学・下條 信輔教授

 1955年東京生まれ。カリフォルニア工科大学生物学・生物工学教授。京都大学こころの未来研究センター、東北大学脳科学センター、玉川大学脳研究センターなどでも特任・特命教授を務める。マサチューセッツ工科大学大学院修了、同Ph.D取得。東京大学大学院人文研究科博士課程修了。スミス・ケトウェル視覚研究所ポスドク研究員、東京大学助教授などを経て現職。専門は知覚心理学、視覚科学、認知神経科学。著書に『まなざしの誕生』(新曜社)、『サブリミナル・マインド』(中公新書)、『〈意識〉とは何だろうか』(講談社現代新書)など。

聞き手のつぶやき

 開口一番「科学技術で、人間を倫理的に、自律的に、よくしようという話しには、警戒心が先に立つね」、隠そうとしていた弱点に、いきなり正拳突きをくらった。この指摘は、シンギュラリティ後の人と機械の関係にも及ぶ大テーマだ。人間とは?社会とは?HRIの未来研究の真価を問われるところだ。話題になった「ポストディクション」、「シェアド・リアリティ」、かなり意味深長なキーワードになる予感がする。やはり下條さんを訪ねてよかった。彼は、東大ボクシング部出身、今は空手をたしなむ。私は知的パンチでノックアウトされ、気持ちよくパサデナの青空を仰いで未来をみた。
(聞き手:中間真一)

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