GAFAと呼ばれる先進IT企業が導入するなど、欧米発のマインドフルネスが、未来に向けた豊かな暮らし、働き方のために注目を集めている。そのマインドフルネスとは何だろう?日本における禅の精神と重なるところがあるのだろうか。今回は臨済宗円覚寺の僧、内田一道氏を招き、参加者全員で坐禅を行うなど、これまでとは趣の異なるセッションを実施。白紙のスライドを前にした質疑応答は、禅の公案にも似た趣のあるひとときとなった。
SINIC cafe第4回は、参加者全員による瞑想でスタートした。
イスに座ったままで、なるべく姿勢を真っ直ぐに保つ。目を閉じて、自分の体を改めて感じる。然る後に意識して力を抜き、体を緩める。そして、自分の呼吸に集中する。
会場から音が消えた。そして5分後、内田氏が鳴らす鐘の音で目を開いた参加者の多くは、5分前とは明らかに空気が変わったことに気づいたはずだ。
まるで浄化されたかのような空気の中で内田氏は、自らが禅僧となった経緯から話し始めた。
「私が出家したのは、今から約20年前、26歳のときでした」
出家のきっかけは、学生時代に円覚寺で開かれた一般向けの参禅会に参加したこと。そこで円覚寺の現管長である横田南領老師と出会い、数年後、修行生活に入った。
それから約7年間、円覚寺境内の道場で修行に励む。俗世間とは一線を画された世界で、どのような修行が行われるのだろうか。
「修行僧は、寺の中で寄宿生活をします。朝は4時頃に起きてまず1時間ほど読経、続いて坐禅をします。その後に朝食をいただくのですが、献立は毎日決まっていて、お粥とたくあんと梅干しです」
朝食の後は町に托鉢に出かけたり畑仕事などをこなし、その後で昼食となる。昼の献立は、麦が4割入ったご飯とお味噌汁、これに野菜の煮付けなどのおかずがつく。
午後は声を出してお経を読む練習をして、夕方の4時に夕食をとり、そのあとは9時ごろまで、また坐禅を組む。正規のプログラムはこれで終わるが、その後は、夜坐(やざ)と言って自発的に野外で坐禅をしたり、また、日常の作法などを勉強したりする。当然のことながら、一般人の生活リズムとはかなり異なる。さらに、1カ月に1度1週間、特に坐禅修行に打ち込む期間があり、また、年に1度『臘八大摂心(ろうはつおおぜっしん)』と呼ばれる一年で一番厳しい修行期間がある。
「12月1日から8日まで行われる修行です。お釈迦様が菩提樹のもとで、12月8日の未明に悟りを開かれたのにあやかって行われる修行です。この間は、夜になっても、横になって休むことが許されず、坐睡(ざすい)といって、坐禅の姿勢のままで、数時間を過ごし、明くる日を迎えます。」
一日中、坐禅を組むというのがどういう世界なのかは想像するしかない。内田氏は「さすがに初めてのときは、限界を感じました。」とだけ語った。禅僧の世界はやはり普通とは少し異なるようで、昔の禅僧の中には生涯横になって眠ることのなかった人もいるという。
「修行時分は、おそらくは自分が思っている限界の、そのずっと先に本当の限界があるのかもしれないと限界を超えようと励んでいました。しかし、最近で思うことは、自分の心理的身体的限界を客観的に知り、時には退くことの大切さも知らなければならないと思っています。」
瞑想について
Q. 人間はいつ頃から、何のために瞑想を始めたのか。
A.
推測ですが、サルから人へ脳が発達するにつれて、それ以前には大自然の一部として存在していた脳が、自然から切り離され始めた。その結果、人は不安感や喪失感に苛まれるようになる。そうした負の感情を埋めるために、あるとき誰かが姿勢を正した。すると全身に気が通り、以前感じていた自然との一体感を取り戻せたのだろう。これが瞑想の始まりとなったのではないかと思います。つまり、人は母なる大自然に戻るため、瞑想や坐禅をする。現代のように科学技術が発展し、人工的な空間の中で過ごす時間がほとんどになってしまうと、大自然とつながった生き方を求める人が増える。だから瞑想に惹かれるところがあるのだろう。
Q. なぜ伝統仏教の下では、安心して瞑想に取り組めるのか。
A.
瞑想について伝統仏教も、かつては新興宗教だったと考えることもできる。そこから試行錯誤を繰り返しながら、今に至っている。つまり、過ちから学んでいるから、人を惑わすようなことは戒められている。
お釈迦様も「私の言葉でさえ鵜呑みにせず、各自、よく吟味してから受け入れよ」というようなことを言われたそうだ。
大切なのは、まわりの意見もくみ取りながら、冷静に自分で考えて判断することだ。そのためには集中の瞑想と観測の瞑想を使いわけるといい。集中の瞑想は、一点にフォーカスして深く入り込んでいく。これに対して観察の瞑想は、カメラのワイド機能のように視野を広く拡散していく。集中と観察を常に意識し、偏らないよう心がけてほしい。普段は心が基本的に乱れているので、まず集中の瞑想をして心を落ち着かせる。それから観察の瞑想に移り、自分と自分のまわりの関係や世の中で起こっている現象を冷静に見ていくのがよい。
Q. 坐禅が深まるとどのような効果が得られるか。
A.
一つには、それまで苦手だった人との関係を見直せるようになることがある。つまり相手を違う角度から見られるようになり、相手の行動を納得できるようになる。これは凝り固まった自分のものの見方から解放され、ありのままにものを見る力がついたことを意味するのではないか。そのためには、単にじっと坐禅に打ち込むだけではなく、その対極となる「動」を取り入れながら、バランスを図ると良いと思う。
Q. 瞑想や坐禅は、どこで誰と行うのが望ましいのか。
A.
坐禅に適した場所と、そうでない場所は確かにある。今日の集まりのように、前向きな心、明るい心を持った皆さんたちと、仮に5分間とはいえ一緒に坐禅をすると、元気をいただいた気分になる。そのような、良い気の流れている場で行うのが良いと思う。
先端技術と禅の関わりについて
Q. SINIC理論の「精神生体技術」とは、禅的にはどのようなものと想像できるのか。
A.
唯心論の見方によれば、自分を取り囲む世界は、すべて自分の心によって造り出されたものとされる。もし、そうなら、自分が住んでいる世界を変えるためには、まず、自分の心を変えればよいことになるのではないか。自分の心を変えれば、まわりの世界は変わる。ただし、人の心は、365日いつも晴れ渡っているとは限らない。雨の日や雪の日もあるように、心も怒りや憎しみに満ちてしまうときはある。そんなときに大切なのは、自分で自分の心の状態に気づき、その怒りや憎しみを増幅させないこと。理想は「大悲の心」を持つことだ。精神生体技術は、この「大悲の心」に近いものだろう。
「大悲の心」とは、人が苦しんでいる姿を見て「苦しんでいる人を何とかしてあげたい、自分にできることは何かないか?」と思う気持ちである。この「大悲の心」を自分の中で大きく育てるよう心がけることが大切だ。
Q. SINIC理論と華厳世界には類似性があるのか。
A.
以前、中間氏からSINIC理論について説明を受けたとき、自律社会は華厳世界に似ていると感じた。一人ひとりが「箇箇円成(ここんえんじょう)」であること、すなわち各自がそれぞれ素晴らしい個性を発揮しながら、全体として社会が調和しているのが華厳世界である。この考え方とSINIC理論は一致しているように思えた。あの偉大な哲学者・数学者のライプニッツも、じつは同じような考え方を主張している。人間が幸せに生きていく社会の仕組みを求めると、東西を問わず結局は同じところに行き着くのではないだろうか。
Q. 自律社会で求められる、「自分を律する技術」とはどのようなものを想像できるか。
A.
自律を個と全体の関係で捉えてみよう。一般的に個を強調しすぎると全体が乱れると考えられがちだが、では個性が発揮されても全体が乱れない方法はないのだろうか。私はあると思う。自分が大自然の一部であると認識すれば、同じく大自然の一部である他者とは深いところでつながっているはずだ。つまり表面上の世界では別々に見えているにしても、本質的な部分ではつながっている。こうした認識を持てるなら、自分とは異なる他者を認めることができる。
その根本となる大自然とのつながりを、確認する手段の一つが坐禅であるのではないかと私は思う。坐禅により、大自然との一体感を確認し、誰もが深いところでは同じく一つであることを確認して、各々違う現実社会に望めばよいのではないか。
PROFILE
臨済宗大本山円覚寺 黄梅院住職
内田 一道氏
臨済宗大本山円覚寺 黄梅院住職
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