SINIC理論によれば、今は「最適化社会」であり、次に訪れるのは「自律社会」とされる。では未来社会はどのようなものになるのだろうか。正解のない問いに対してみんなで考えを深めるため、さまざまな分野の最前線で活躍するゲストと語るSINIC café、記念すべき第1回は未来国家エストニアを熟知する守田健太朗氏をゲストに迎えた。世界最先端の電子政府は、どんな未来社会を見せてくれるのだろうか。
エストニアといわれてもどこの国か、多くの人はピンとこないだろう。北極海沿岸にある旧ソ連からの独立国でその人口は約130万人、面積は九州と沖縄を合わせたほどに過ぎない。
「そんな小国が世界中から注目されている理由は3点、電子政府、スタートアップ支援、サイバーセキュリティです」と守田健太朗氏は話を切り出した。守田氏は在エストニア日本国大使館専門調査員として2016年から2年間、同国に滞在して電子政府の実態をつぶさに観察してきた。まだ世界のどの国も実現できていない電子政府を、なぜエストニアだけがいち早く立ち上げられたのか。その理由は歴史に求められると守田氏は説く。
「ひと言で表すなら“支配され続けてきた民族”、それがエストニア人です。1918年にエストニア共和国を建国したものの独ソ戦の戦場となってソ連に吸収され、1991年のソ連崩壊に伴いようやく共和国としての独立を回復しました。長い歴史の中で独立を保てている期間は、まだトータルで50年程に過ぎません。安全保証を考える上での最重要課題は、ロシアからの侵略をいかに防ぐか。そこで国際機関に積極的に貢献してアピールする一方で、世界初の“データ大使館”をルクセンブルグに開設し、国家運営に関するデータを同国のサーバに分散・保管しています」
リアルな領土は侵略される恐れを免れないが、万が一領土を占領されても、バックアップデータがあれば電子政府の運営は維持可能。超大国に隣接する小国だからこその知恵が生んだ、サイバー安全保障とも呼ぶべき画期的なシステムである。
常にまわりの大国から侵略され続けてきたエストニアにとっては『生き残り』が国家にとっての至上命題である。経済面では北欧との関係構築に注力し、ロシア依存からの脱却を進めてきた。現在ではロシアとの貿易額が全体に占める割合はわずか6%程度、エネルギー面でも依存していない。一方で銀行・通信・流通に関してはスウェーデンとフィンランドからの投資が大半を占めている。その結果、通信網が早くから充実しオンラインバンキングも浸透していた。この通信インフラが電子政府化を進める下地となった。
「電子政府化を進める上でエストニアには独自の好条件が3つありました。第1は、旧ソ連時代に設立されたサイバネティクス研究所です。暗号技術とプログラミングに関する国家的な研究所であり、レベルの高い技術者がかなり多く残っていたのです。第2は、独立時の政府要人が非常に若かったこと。首相が32歳、多くの大臣が20代から30代で、ソ連とは真逆に進み、新しいものをどんどん取り入れる方向で国作りを推進しました。そして第3が、北欧企業の影響であり、たとえば通信会社による通信網の整備であったりエストニア人がビジネスでのノウハウを蓄積できました」
その結果、今では公共サービスの99%が電子化されている。電子化されていないのは結婚・離婚・不動産販売の3つだけ。人生で最も重大な決断はアナログで下すべきだ、というのがエストニア人のユニークなポリシーだ。個人の確定申告は国民の95%がオンラインで行い平均3分で終了する。医療に関しても処方箋の99%はオンラインで処理され、世界で初めて国政選挙においてインターネット投票を導入した。
「企業設立の際の登記などに要する時間は長くて2時間程度、最短記録は9分という例があったそうです。何もかもがスムーズで企業負担がミニマムに抑えられているため、外国企業が評価し、進出しています」と、外国企業及び外国人起業家が集まる理由を守田氏は説明する。
スタートアップ企業が集まるキッカケとなったのが、Skype社の存在だ。創業者こそエストニア人ではないものの、エンジニアたちのほとんどが同国人だった。その後の売却に伴い、彼らにも潤沢な資金が入った。
「2006年ぐらいから元Skypeエンジニアたちによるベンチャーキャピタルがスタートアップ投資を始めました。それまで資金がなかった国でスタートアップが資金調達することが可能になり、元Skypeの従業員たちが経験を活用し、また電子政府による起業・経営のしやすさや税制面での優遇措置などのメリットが知れ渡った結果、2012年頃以降は国外からの投資が急加速します。おかげで小国にもかかわらずスタートアップが約550~600社あり、ユニコーンもSkypeを入れて既に4社出ています」
EUが出している電子行政に関するランキングでは、フィンランドに次いでEU諸国の中で第2位に位置づけられている。電子行政を構成する要素は、法律・規制とマネジメント、そしてテクノロジーの3つだ。これらをエストニアは、どのように浸透させてきたのだろうか。
電子政府化を進めるため重視されたのがマネジメントである。政治的な意思を統一し、与野党に極右政党も含むオールエストニアが電子化の推進に合意している。電子化を担当する政府CIOは独立したポジションを確保され、政権交代してもCIOの地位は不変だ。だから5年単位などの長期計画をCIOが責任を持って遂行できる。各省庁における新規システム導入なども審査が一元化されるなど法整備も優れている。
テクノロジー面では、国民IDカードによる個人情報の取扱、X-ROADによるデータ連携、KSIブロックチェーン技術によるデータのセキュリティ確保が特長だ。
「2002年に導入された国民IDカードは、15歳以上での取得が義務付けられており、国民の98%が所持しています。カードはあらゆる電子サービス利用時の個人認証に使われており、2007年からはモバイルIDも導入されました。デジタル署名への移行により、時間換算でGDP2%相当のコスト削減に繋がっています。GDP2%は同国の国防費に相当するため、彼らは『電子署名で国を守っている』と自慢するほどです」
データを分散管理し連携を図るシステム基盤がX-ROADである。必要なデータにアクセス権限を持つ人が容易にアクセスできる、データの秘匿性が保証される、匿名性が担保されると3つの条件が保証される堅牢なシステムは、1000以上の機関が接続し、年間9億回以上のトランザクションがある。その使い勝手の良さは国外でも高く評価され、フィンランド、アゼルバイジャン、ナミビアなどへ輸出されている。
「データの完全性証明にフォーカスした独自のKSIブロックチェーン技術は、データ改ざんを毎秒チェックしています。そのレベルの高さを評価し、アメリカもこの技術を導入しました。このように法律を整えマネジメントも徹底、テクノロジーも最善を尽くして2002年にスタートした電子行政ですが、実は当初の5年間はほとんど使われませんでした」
その理由は、そもそもインターネットの利用環境が未整備だったことに加えて、当時既にデジタルバンキングが進んでいたため、新たなIDカードの必要性がまったく認識されなかったからだ。
「電子政府の普及を図るためエストニア政府は、3つの大きな官民プロジェクトを立ち上げました。まず学校にコンピュータを整備し、教師へのICT教育を徹底、教師から子どもたちへと学校での教育に力を入れました。成人市民に対してもコンピュータとインターネットに関する教育を行っています。そして銀行による既存サービスから国民IDカードによる認証システムへの切り替えが決定打となりました」
成果は如実に現れ、2006年時点で全国で28,000人にとどまったIDカード利用者は、わずか3年で10倍強の30万人まで増えた。
今後、エストニアの電子政府は何をめざすのか。未来を示すキーワードを守田氏は4つ示した。
「Country as a Service、国はサービスを提供する主体でしかないということ。この延長線上に、国外の人でもエストニアに居住権を持てるE-Residencyという制度が生まれました。そしてZero bureaucracy、役所での手続きを可能な限り削減します。例えば中小企業には、国と契約を結べば税務手続きが不要となる申告システムが用意されています。さらにInvisible Service、国民がわざわざ申請しなくとも必要なサービスを政府が先回りして実施します。最後に国際的な相互運用を進めていて、例えば電子処方箋サービスはフィンランドでも提供されるようになりました」
世界最先端、あるいは孤高の道を突き進むといっても過言ではないエストニアをSINIC理論に当てはめてみたとき、この国はどこに位置するのだろうか。
守田氏の見立ては「最適化社会から自律社会への端境期」となる。人間中心的なサービスは既に提供され始めていて、行政手続等を最小限まで抑える環境も整備された。従ってシステムと人との「協働」は実現済みと見ていい。となると次に問われるのは、人とシステムの「融和」による、人の能力拡張である。
「人とシステムの融和に関してエストニアが示す未来像が2つあると思います。一つはGoverment as a Platform、プラットフォームとしての政府であり、もう一つがE - Democracy、民主主義の電子化です」
Goverment as a Platformとは、テクノロジーの活用により集団的行動に関わる問題解決のプラットフォームである。E - Democracyは、国民一人ひとりが能動的に参加し、より良い国を実現するシステムである。
「この2つが実現するとき、自律社会の一つのモデルが誕生するのではないでしょうか。まさにSINIC理論が示す自律社会実現に世界で最も早く、しかも最も近づいている国が、エストニアだと思います」と守田氏は講演を締めくくった。
Q. エストニア国民の電子政府に対する満足度は?
A.
仮に「満足しているか」とエストニアで通行人に尋ねれば「満足していない」と答えるでしょう。なぜなら、現状を当たり前として育ってきた人が増えつつあり、彼らはもっと便利になって当然だと考えるからです。国民IDカードによる認証も、なぜアプリでできないのだとの不満が出ています。
Q. システム刷新の際に障壁となりがちな既得権益はなかったのか?
A.
旧ソ連時代の政策により産業が衰退し、レガシーなどほとんどないぼろぼろの状態でした。だから何もかもまっさらな状態から始められたのが良かったのだと思います。
Q. エストニアの制度を日本に持ち込むとしたら、どのようなやり方が考えられるか?
A.
まずはマイナンバー制度の見直しが必要でしょう。利用範囲を拡大し、使えるサービスを増やすなどメリットを実感してもらう。民間企業も利用できるようになればより利便性が高まり、企業サイドも管理が楽になるはずです。その意味では医療サービスから始めるのが効果的で、一気に日本全体と欲張らずに、まずは地方自治体レベルから始めるのが良いと思います。
Q. システムの使い勝手を左右するUXデザインへの気遣いは?
きわめてきめ細かく気を使ってデザインされています。シンプルでわかりやすく、誰もが簡単に使えるデザインが考えられています。全てのサービスは統一ポータルから飛べるようになっています。
Q. すべてを電子化に移行することによる弊害は?
A.
電子化を進めている一方で、アナログ対応も必ず残しています。デジタルサービスを使いたくない人は、必ず一定数いるため、その人たちを切り捨てるようなことはしません。ただ、基本的には一度使えるようになると、圧倒的な便利さを感じて移行する人が多いようです。
Q. e-Residencyにより他国民を受け入れる理由は?
A.
人材不足に対応するためです。IT分野に長けた人材が比較的多いとはいえ人材不足は慢性的なため、まずはエストニアの仕組みを使ってもらい、エンジニアに関心を持ってもらう狙いがあるようです。
Q. 人口が130万人とすくなったことが、ドラスティックな改革を進められた要因では?
A.
人口規模が少なかったため、意思のすり合わせがやりやすかったのは確かでしょう。国会議員も101人しかいないので、意思統一できました。ただし、最近問題となっているのが、AIを活用して新たなサービス開発を進める際のデータの少なさです。
Q. 電子政府を進める一方で、リアルな自然環境についてはどのように考えているのか?
A.
電子サービス提供の背景には、人口の分散があります。森など自然の中で分散して暮らすことを望む人が多く、行政サービスを平等に提供する手段として電子政府が推進されました。アニミズム信仰のある国なので、環境保全に対する意識はとても強いと感じます。
Q. システムの基盤となるX-ROADはどこが作ったのか?
A.
旧サイバネティクス研究所のサイバネティカ社とほかに2社が共同でつくりました。システム導入後の管理については、経済通信省の下部組織である国家情報システム庁が一元管理しています。
PROFILE
守田 健太朗氏
一橋大学法学部、ロンドン大学東洋アフリカ研究院(SOAS)開発学修士号修了。英国、オランダ、オーストラリア、韓国及びカナダの大学とのプログラム、プロジェクトに参加。在学中に在京大使館、国際機関駐日事務所等でインターンシップを経験。外資IT企業で勤務後、2016年5月から2018年5月まで、在エストニア日本国大使館専門調査員(政務・経済)としてエストニアの経済・電子政府を主担当、政務・教育・文化を副担当。安倍首相、小野寺防衛大臣等ハイレベルのエストニア訪問、日本企業のエストニア訪問が急増した時期にエストニアにて経済担当官として勤務。
2018年8月より2019年5月まで、日エストニアスタートアップ企業Planetway Japanで事業開発、日エストニア間パートナーシップ構築に関わる。また、個人としてエストニア政府Eレジデンシーチームの訪日の際にPR業務受託したほか、数々の企業及びイベントにてエストニアの電子政府に関しての講演を行う。
一般社団法人Publitechマネージャー、一般社団法人ユースデモクラシー推進機構アドバイザー。
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