途上国のスラムを何度か訪れたことがある。住民たちはゴミのなかのバラックに住み、ときにゴミをあさり、日雇い仕事でわずかな収入を得ながら細々と暮らしている。その暮らしぶりは、日本人からすると、不幸な状態だと見ることができる。そして、いっぽうスラムの住民には、日本の暮らしは幸福そのものと映るだろう。
ところがスラムのなかにも、日本人より幸福だと見える人たちは存在するのである。すべての人がそうだと言えないが、彼らは、初対面の人間をも歓待してくれる。人を思いやる気持ちがある。そして何より強い希望も持っていた。その希望が、ある種の幸福感をもたらしていたのだと思う。
東南アジアの某スラムの住民たちは、地方政府から立ち退きを要求されていた。しかし彼ら政府と交渉し、代替地を要求し、新たなコミュニティをつくるための運動を粘り強く行っていた。たまたま住民集会に顔を出す機会があった。言葉の壁があり、話の内容はまったくわからなかったが、ひしひしと希望と期待感が伝わってきた。みな表情が明るく、高揚感に満ちていた(ちなみに、参加者の大部分が中年女性で、男性は少なかった。国を問わず、とかく男は諦めがちであるようだ)。
基礎的物資が満たされると、何を追求し、何を幸福と思うかは、個人で大きく異なってくる。そして物質的に満たされずとも、幸福感が得られることもある。幸福のとらえかたは百人百様であるが、将来の見方が大きく関わっているのだと思う。
いまの平穏さを今後も維持できる。現在より良くなってゆく。窮地にあっても、問題解決の糸口をつかめている。このような希望を持つことができれば、スラムの人たちのように、それなりの幸福を感じることはできるのだろう。とどのつまり、幸福は楽観姿勢であり、前向きの意志である。フランスの哲学者アランは『幸福論』のなかで「悲観主義は気分であり、楽観主義は意志だ」と論じている。
ところで、人間が生きる時間は限られており、やがて死を迎え、その時点で将来への希望はなくなってしまう。天国を信じていれば、臨終の際にも楽観姿勢でいられるだろう。ただし、多くの人の場合、残された家族や親しい人たちに希望を託すのではないだろうか。自分がいなくなったとしても、残された者が仲良く、幸福に暮らしてほしい。そのことが楽観できれば、心おきなく天寿を全うできる。逆に、往年いくら豊かであったとしても、希望を託す人がいなければ、最後の最後で、幸福ではいられない。最近、近親者が亡くなった。残された家族の幸福を希望して、安らかに息を引き取った。
前回コラムでも指摘があったように、家族関係が幸福に影響を及ぼす最重要要因のひとつであることは、多くの調査で明らかにされている。大切な人と触れ合えること、理屈抜きで安らげること、子供の成長を見守ること。いろいろな幸福を家族から得ることができるが、次の世代に希望を託せることも、家族がもたらす幸福のひとつだと思う。
日本では非婚化が進んでいる。人口が減っているにも関わらず、単身世帯は増えている。家族は縮小傾向にあり、このままでは日本全体としての幸福感は低下してゆく。女性が働きやすい環境整備などをさらに進めることで、結婚し、家族を持つ人を増やせるだろうか。その可能性は小さそうだ。社会はとても便利になり、一人暮らしは気軽である。いっぽうで、ずっと晩年も悠々とした一人暮らしを続けてゆくことができるのか。こちらの可能性も小さそうだ。
家族ではなく、希望という名のあなたを訪ねてゆく。ともに暮らすパートナーという関係は増えてゆくだろう。