つい先日、建築会社の研究所にて革新的な構造技術を紹介してもらう機会があった。建物を地面から建てるのではなく上から宙吊りにするという、ドラスティックな発想に立った免震設計の話を聞いている中、「ここで微分積分を使ってお話するともっと面白い解説ができるんですけどね」という一言は聞き捨てならなかった。つまり、微積はおろか、三角関数ですでに数学と決別していた私にとって、その理解への扉は閉ざれているということに愕然としたのだ。
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前回のコラムで中野さんがマズローの理論を取り上げていたが、「学び」を一つの人間の欲求として捉え直してみると面白い。
欲求とはすなわち「○○したい」と願うことである。しかし残念ながら学生の時分に「学びたい」と素直に思える分野に出会うことはそう多くない。
高校時代私にとっての数学は、欲求の対極に位置した「学びたくないもの」だった。抽象的で断片的で、自分の生活からは全く疎遠に感じられる数式や図形たちを前に、「こんなことを学んで何の役に立つのか」と感じていた。そのとき私が学びたかった事柄とは、自分の将来や人生の意味、人間関係の問題など、もっとみずみずしく、プラグマティックなことであった。
けれど社会に出てみると「免震技術に微分積分が応用されていた」という気付きに突如出くわす。学生時代に"捨てた"学びの意義に、後から気付かされることが結構ある。
だからといってではそんな自分の反省を踏まえた上で、今、学びを放棄している学生に対して「いつか役に立つから勉強しなさい」と説いても訴求力は皆無だろう。欲求なしに学ぶことの不毛さは私たち自身、身に染みてわかっている。
大事なのは、捨ててしまったものと再び出会いなおせるということ。学びに遅すぎるということはない。あのときは出会い方が悪かっただけで、今なら案外うまくやり直せるかもしれない。
幸いなことに今は、さよならを告げた学びが恋しくなったときにたぐりよせる糸口がたくさんある。ネットでちょっと検索するだけでも、微分積分を歴史的背景から解説した丁寧な百科事典が見つかるし、本屋をのぞけば大人向けの山川の教科書なども並んでいる。
社会人大学院も一例だろう。私の出身の大学院にもかなり多くの社会人が通っていた。テレビ局のディレクター、子育てを終えた女性、コンサル会社経営者、プランナー、工学デザイナー、アジアからの留学生など。eラーニングで受講できる科目が多いこと、専攻科目にこだわらず幅広い学生を受け入れていたことも、彼らの条件に適っていたようだ。
それでも、ゼミや学会出席、論文執筆などのノルマは専業学生のそれと変わらない。社会人と学生との両立はかなり厳しそうだったのも事実だった。聞いてみると、修士号・博士号を取ったところで会社での処遇が上がる訳でもないらしい。それでも、「勉強したいことがまだまだあると気付いた。だから来た」。一旦学び舎を離れた彼らが再び学び舎へと戻る理由は、ただそれだけのようだった。
「学びたいから学ぶ」。ステイタスを得られるからとか、テストに出るからとか、親や先生がやれというからとか、そういった外圧や打算も何もない中で生まれる純粋な学びへの欲望こそが、マズローの5段階の先にあるとされる「自己超越」、つまり、人間の欲求の最上級の姿なのか。
「永遠に生きるかのように学べ」とガンジーは学びの永続性を説いた。間違いなく人間にとって学びとは、一生モノのエンターテイメントだ。このエンターテイメントを楽しむことが、豊饒な人生へとつながる。