先月、日本人4人のノーベル賞同時受賞のニュースに日本が沸いた。世界に誇れる研究者が日本にいるというニュースはたくさんの人々に夢と励ましを与え、4氏は物理学界・化学学界だけでなく、社会的にも大きな貢献をした研究者と言えるだろう。これを一過性の盛り上がりにとどめず、地道な基礎研究の価値が見直されたり、政府が現行の科学教育の課題に真剣に取り組むようになったり、といった前向きな社会変化につなげることで、受賞はますます大きな意義をもつものとなるはずだ。
この機会に、今回のコラムでは社会の中の研究者のあり方について考えてみようと思う。
研究者とは「真理」の探求活動に従事する人々だ。歴史を遡ってみても、コペルニクスやガリレオ、ニュートン...といったかつての研究者たちは、純粋な知的満足を得るために研究活動にいそしんでいた。彼らの生きた時代の「研究」は、趣味や道楽的性格が強く、社会的使命や責任と直接関わりがあるものではなかった。
だが今の研究者はそうはいかない。もちろん研究活動の最大の原動力は個人の好奇心だったとしても、研究者は自分の研究行為と社会との関係性を考えていかざるをえない時代に突入している。
それを象徴するものとして思い出されるのが、TVドラマ『ガリレオ』の一場面だ。それは主人公の物理学教授・湯川学が、ある事件の証拠を求めて不法投棄されたゴミの集積所を訪ねるシーン。集積所に山のように廃棄されている電化製品を目にし、しばし呆然とする湯川教授に向かって、集積所の係員が「えらい学者の先生たちは好き勝手に研究することばかり考えているが、そんな技術から生み出された製品が、これだけ多くのゴミを生んでいるという現実を考えたことはあるか」と言い、湯川は返す言葉を失う。現代の「ガリレオ」は、17世紀のように私的な好奇心を満たすだけでは社会に許容されず、社会的責任も問われるということだ。
「対称性の自発的破れ」からは程遠い領域だが、私も「研究員」を肩書きに持つ存在であり、研究の成果ばかりではなくその社会的意義について考える責任がある。しかしまだまだ課題は多い。
例えば昨年ある原稿を書いたとき、編集スタッフからこんな指摘を受けた。
「文中に『○○と思われる』『△△だと考えられる」という語尾が多いのが気になる。『○○である』とか『△△だ』と言い切ってほしい。澤田さんに限らず、研究者の原稿はこういう表現をよく使うけど、どうして断定することにためらうのか?こういう表現は『逃げ』ているように見えるよ」
この指摘には、研究者としての立場としてはこう反論できる。すなわち、研究結果から導き出された結論はあくまで「仮説」だ。そのアンケート調査からは、「こういう傾向がある」とは言えても、違う解釈の仕方もあるかもしれない。「仮説」を絶対視し、他の解釈の余地を残さないことは、健全な議論の発展を阻害することにつながる。そういったことを考慮した上で、調査報告書の中では、結果としての「事実」と、その事実への研究者の「見解」とを識別できるように書くという流儀を、恐らくどの研究者にも身につけている。「断定した表現を使わない」のは「逃げ」ではなく、研究者の「誠実さ」なのだと。
しかし、特に社会に関わる研究活動に携わる今の私のような研究員の立場から、そんな反論を行うのはナンセンスだと思った。むしろ、自分自身が考え方を変えなくてはいけないと強く感じた。大学の研究室から出た今、社会から求められる研究者とは、研究結果に誠実であることだけでなく、その結果への適切な解釈、その解釈を踏まえたうえでの自分なりの見識も、時には覚悟を持って「私」を主語にしながら発信していくことまでもが務めなのだろうか、と。
研究者と一口にいっても、ノーベル賞受賞者のようなスーパースターから企業の社会生活研究部門まで幅広いが、自らの知的好奇心を満たすだけでなく、社会との「コミットメント」の意識を常に持ち続け、研究行為を何らかの形で社会にフィードバックしていく努力をする姿勢が、今の時代の全ての研究者の要件ではないだろうか。