先日、上野・東京都美術館で開催されている「ルーヴル美術館展 フランス宮廷の美」に行った。18世紀のフランス宮廷で使用されていた豪華な美術工芸品の数々。富と権力の象徴である金銀や宝石が惜しみなく用いられた食器や時計、花瓶、小物入れ等の贅沢品の数々はどれもがとにかくゴージャスでうっとりと見惚れてしまう。
だが中には、華美ではあるが"洗練された"とは言い難い、審美的センスを疑ってしまうような展示品もあった。例えば繊細な蒔絵が施された日本製の漆器を、フランスの職人が、金光りした台座や取っ手をくっつけてアレンジした調度品。美しい梅の木の模様が入った中国製の青磁の壺に、模様をまったく無視して金メッキの装飾で覆った作品。日本の漆器職人や中国の陶芸家が見たらさぞガッカリするだろうなと苦笑してしまう。「蛇足」という概念は当時のフランス宮廷には恐らくなかったに違いない。そんな"過剰の美学"こそが当時のヴェルサイユ文化の真髄と言えるのかもしれないが。
確かに金銀細工をあしらった工芸品は美しいが、トゥーマッチな輝きはかえってチープに見える。華やかなドレスに身を包んだマリー=アントワネットは当時の女性たちの羨望の的だったが、頭に船を乗せてしまうほどに極端に飾り立てた髪型は社会風刺の的になった。"絶妙/行き過ぎ"の分水嶺を的確に見極めることができるかどうかは、その人の腕やセンスに委ねられている。
何事もさじ加減が肝心。だがそれはとても難しいことでもある。それは今月発刊した機関誌『てら子屋 vol.10』の編集作業の中でもつくづく思い知ったことだ。
「本」というのは、伝えたいことを伝えるためにある。だからもちろんその大前提には、つくり手の伝えたい思いや熱意がある。だが、つくり手の思いや情熱を一方的に押し付けるような読み物は、暑苦しすぎてむしろ読者を白けさせる。それを避けるには、読み手がニュートラルに自分なりの意見や疑問を自由に持てる余地を残さなければならない。そのためにはつくり手の側も、客観的な姿勢であったり、時には批判的な眼差しも交えて誌面づくりに取り組むクールさも求められるのだ。
今回の『てら子屋』のためのインタビュー取材で、私は「学び」に携わるさまざまな活動を実践する人々の話を聞き、「思い」を受け取った。取材から戻ってきて早速記事を書いてみた。だが、取材で見聞きした物事やインタビュイーの方々の思いの全てを盛り込み、そこにさらに自分の意見も注ぎ入れたレポートを書いているとあっという間に字数オーバー。しかも読み返すと「こんな素晴らしい活動を行っている人たちに感激した!」という筆者の感動のお裾分けのような独り善がりな読み物。第一、文章にメリハリがなくて読みにくい。
もう一度記事を練り直すにあたっては、先輩のアドバイスを受けたり、新聞や雑誌の記事を読んだりした。その中で、書き手としての論理的なストラテジーや客観的態度といったものの重要性もだんだんとわかってきた。例えば、まず取材目的や活動団体の概要といった、最低限読者と共有すべき情報を明確に説明すること、そしてインタビュー内容も全部を紹介するのではなく、その記事を通して最も伝えたいことから逆算して掲載すべき「材料」を厳選すること、そして押し付けでない読み物にするには時には取材対象と適切な距離感をとるも大事であること等々。
もちろん大学の論文や企業の報告書ではないのだから、客観性は見失うことなく、しかし最終的にはインタビュイーたちの思いが伝わり、そこに筆者の意見が加わり、幅広い読者に楽しんでもらえる読み物になるのが一番良い。伝えたい熱意の「赤」と、伝えるためのテクニックとしてのクールな「青」とをどのようにうまく混ぜたら絶妙な「ムラサキ」を出せるかを、大いに試行錯誤しながら記事を書かせてもらったのが今回の『てら子屋vol.10』だった。
「何事もバランスが大事だよ」とはよく言うが、しかし適切なバランス感覚を身に付けることは言うほどに容易くない。そういえば計量スプーンもカップも使わずに、しょうゆと砂糖とみりんとお酒を適当に入れて作る母の肉じゃがのあの絶妙な味が、まだどうしても私に真似できないように、バランス感覚というのもきっと頭でスタティックに学習していくのではなく、実体験の積み重ねのダイナミズムの中で体得していくしかないものなのだろう。