COLUMN

2008.02.01中間 真一

物置小屋のクリエイティビティ~ イノベーションの生まれる場 ~

 昭和30年代ブームは、そろそろ収まってきたのだろうか?生まれた年が舞台の「ALWAYS 続・三丁目の夕日」を、まだ観ていないのが気がかりだが、早々に観てきた人たちは「泣けるぅ」と言っていた。東京タワーや三種の神器もよいのだが、私が昭和30年代半ばから後半を思い出す時、つまりガキの頃を思い返す時に浮かんでくる情景に、家の物置小屋がある。

 なぜだろう?不思議なのだが、幼少時代の暗闇の物置小屋でのシーンを鮮やかに思い出すことがある。都下の小さな家だったが、玄関の脇に小さな物置小屋があった。自転車やら季節の道具やら、古い道具やら、いろいろ入ったトタン屋根とベニヤ板でできた、入り交じった臭いのする物置小屋。家の中には入れられず、そうかと言って、捨てるわけにも、外に出して雨ざらしにするわけにもいかないようなモノたちが雑然と居並ぶ妙な場所だった。そして、周囲の友達の家々にも物置小屋はあったような気がする。当時次々に建てられた社宅や団地のような集合住宅にすら、集合物置があったところもある。地方の農家から都市に出てきた親世代にとっては、納屋の代わりが必要だったのか?しかし、今ではほとんど目にしない。マンションには、もちろん無いし、あっても、庭先に置かれる小ぶりな物置くらいだ。なぜ、必要なくなったんだろう?

 物置の思い出はたくさんある。こっそりヒヨコをもらってきて、物置で飼おうとしたこともある(すぐにバレた)。ガラクタを引っ張り出して分解して遊んだこともある(ワクワクものだった)。悪いことをして閉じこめられたのも物置だった(かなり怖かった)。ヘビがトグロを巻いていたこともあった(仰天だった)。拾ってきたラジオを分解した(ハンダの臭いが充満して気分悪くなった)何かが起こる、何かがある、何かが生まれる暗闇だった。

 かくのごとく、物置小屋はおもしろかった。ところで、物置文化はアメリカで言えば「ガレージ・ハウス文化」だろう。なんとなく共通するようだ。カリフォルニアの知人宅のガレージ・ハウスも、まさに何がいるか、何が生まれてくるかわからないおもしろそうな空間だった。そして実際、ガレージからは多くのイノベーションが生まれ、ベンチャーが育った。1938年にパロアルトの小さなガレージから始まったヒューレット・パッカード、76年には二人のスティーブが実家のガレージからAppleを、94年にはAmazonもガレージ発、そしてGoogleも98年に、という具合だ。電子の時代、PCの時代、ネットの時代は、ガレージから生まれている。恐るべしガレージ空間のパワー。

 そして今、新たなガレージ・ベンチャーの兆しが西海岸を中心に生まれつつあるようだ。すぐれたセンシングデバイスやアクチエーター、それにネット技術を絡めて、様々なガジェット文化が西海岸のガレージから生まれていると聞く。やはり、ガレージそして物置小屋には、何かイノベーティブな文化力があるに違いない。物置小屋のような「あいまい性」や「魑魅魍魎(ちみもうりょう)性」が、新しいコトやモノを生み出せるというような。

 そもそも、研究所って、そういう薄暗くて怪しげな物置小屋と通じているのではないかと感じてしまった。
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