一面に広がる田園風景。歌を歌いながら稲を刈り取り、板に打ちつけて籾にする。すべてが手作業で行われる。村に伝わる伝統的な手法で稲作を行う、バリ島の人々を前に思う。もしこの人たちが機械を手に入れたら、その暮らしはどれだけ変わるだろう。彼らは豊かになるだろうか。けれど、歌声はなくなるかもしれない。このゆったりした時の流れも変わるのかもしれない。
そんなことを考えていた折、スウェーデンから一通のメールが届いた。世界各国の16-29歳の若者を対象とした調査プロジェクトを行っているKairos Futureからだった。そこには、日本の若者の回答結果に関するいくつかの疑問が記されていた。
疑問のひとつは、近代技術に対してネガティブな捉え方をする日本の若者の多さについてのものだった。「近代技術がない方が世界は豊かだと思う」と考える若者の多さに、「技術大国の日本の若者がなぜこんなにも後ろ向きなのか不思議で仕方がない」という。
彼らの疑問ももっともだ。「近代技術」をITや日常生活を取り巻く様々な商品・サービスととらえれば、日本の若者はその恩恵を最も享受しているグループに入るだろう。その彼らがなぜ、「技術は世界を豊かにする」と思えないのだろうか。
第二次世界大戦以降の急速な発展の中で、日本は技術の恩恵を受け、同時にさまざまな問題を経験してきた。技術の発展に伴って問題が複雑化する中、市民の理解が追いつかないままに、漠然とした不安だけが募っていく。近年では、科学技術への過信や依存、濫用によって引き起こされた事故なども目立っている。技術のもたらす「光」と「影」の、「影」の方に目が向けられる機会が増えた。
技術によって生活が飛躍的に豊かになった経験をしていない若者世代は、「光」より「影」に目を向ける傾向がとくに強いのかもしれない。生まれたときからたくさんの技術に囲まれて育ってきた若者世代にとって、それらはすべてあって「あたりまえ」のものであって、事故や不具合によるマイナスの影響を被ることはあっても、プラスの効果をもたらすもの、生活を「豊かに」するものという実感を持てずにいるのではないだろうか。
近代技術に囲まれた生活を送る日本の若者はもしかしたら、他国に先駆けて、技術を活かし、人間らしい暮らしを送ることの難しさを経験しているのかもしれない。そうだとすれば、さまざまな技術や商品が普及していくにつれて、冒頭のバリ島の人々も、同じような問題を経験するのかもしれない。
しかし、技術を人間らしい暮らしを阻害するものではなく、支えるものとして活用できるか否かは、技術そのものではなく、人間の側にかかっている。技術を利用する立場にある人間が、「技術は社会を豊かにする。私たちはその方法を知っている」と言えるようになったときが、本当の意味で「豊か」な暮らしが実現するときなのではないか、と思う。(鷲尾梓)
■Kairos Future: Global Youthプロジェクト