COLUMN

2007.03.01中間 真一

ヒート・アップの先~燃え尽きてしまわないために~

 早咲きとは言え、家の前で桜の花が咲いている。東京では、初雪を観測しないまま3月を迎えた。1876年(明治9年)に観測を始めて以来、最も初雪が遅かったのが1960年2月10日、過去130年間で初雪を観測しなかった年はないという。最低気温が氷点下となる「冬日」も、まだ一度もない。「今年は暖冬だったね」では、なんだかすまされない感じだ。

 国連「気候変動に関する政府間パネル」(IPCC)が2月にまとめた報告書『気候変動2007―自然科学の論拠』は、「20世紀半ば以降の温暖化は、人間の活動による温室効果ガスの増加によってもたらされた可能性がかなり高い」と告げた。そして、地球温暖化の危険を訴えた話題の映画「不都合な真実」がアカデミー賞長編ドキュメンタリー賞を獲得し、その壇上で出演者でもあるアメリカ前副大統領アル・ゴア氏は、「これは、政治問題ではなくモラルの問題だ」とスピーチしたらしい。

 地球温暖化の熱源は、人間の活動にあり、人間自身の「善さ」から発しない限り、この問題の解決は難しいということなのだろう。しかし、大きな人間の活動である産業の勢いは、火勢を強めるべく煽られてヒート・アップするばかりだ。資本主義経済のもとにあっては、産業の勢いが止まれば、幸福への勢いも止まってしまうと、地球上の多くの人が信じているはずだ。人間の「善さ」と「幸せ」は、地球・社会・産業の上で両立できないのだろうか。

 今年の左義長当日「天声人語」に、私たちの「てら子屋」の活動にも協力してもらった大西琢也君の名を見つけた。火起こしの術に長けている彼の「木には火が隠れている。人間はそれをいただくだけ」というコメントが紹介されていた。力任せで火を起こそうとすると上手くいかない。だけど、大事な火をいただくという謙虚さを持てるようになると不思議に上手くいくようになったのだそうだ。また、幸田文の「燃す」という随筆も紹介されており、火を「ものの最後の力」として惜しみ、その熱をいとおしむという話が紹介されていた。

 キャンプファイヤーの燃えさかる炎の勢いは、やはり私たちの心をかきたてる。真っ赤な熾火(おきび)を囲んで夜を徹して談論風発ということもある。しかし、時間とともに火は落ち着いて静かに灰になり、新たな朝の陽光が降り注ぐ。そして、眠りから醒めた時も眠れずに朝を迎えた時も、悪酔いの翌朝の虚脱感とは全く違う、何かを得た充実感を味わっていることが多い。やはり、一方通行でアクセル踏み込むばかりのヒート・アップ一点張りは、人間の「善さ」や「幸せ」には合わないのかもしれない。ヒート・アップとクール・ダウン、その中で残ったものを内に積層し、また繰り返していく生き方の方が幸せそうだ。

 成長経済を経てきた日本、超高齢社会を迎える日本、つまり燃え上がって、ヒート・アップし続けてここまで来た日本社会だ。世間では、燃え尽きてしまったり、不完全燃焼に陥ったりという問題も生じ始めている。ここらでひとつ、これまでの力をいとおしみ、次の糧とするためのクール・ダウンはどうだろう。夜明け前の寒さはこたえるだろうが、明日に向けて、それ以上のものを獲得できるチャンスがありそうな気がする。これからのステージの主役となる今の日本の中年世代には、さらなるヒート・アップよりも、こちらの方が性に合っているように思うのは怠け者の私だけだろうか。それにしても、お花見はやっぱり晴れやかな気持ちで年度の明けた四月にしたいものだ。
(中間 真一)
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