COLUMN

2006.05.01中間 真一

「ていうか」、というか・・・-必要なのは、社交的コミュニケーション-

 いまどきの若い人たちと喋る機会はあまり無いのだが、電車の中などで彼ら彼女らの会話が耳に入ってくることがある。喋っている当人たちは、周囲に聞こえることなど気にせず、大きな声でやりとりしているが、聞こえてしまう私にとっては、「これが、会話なのだろうか?」と、彼らにとってのコミュニケーションに対して理解不能になり心配になる。オヤジになってしまったのだと諦めるべきだろうか・・・

 たとえば、昨日もこんな会話が耳に入ってきた。
A:「内定もらえそう?やっぱ、けっこう、狙ってるとこあったり?」
B:「ていうか、昨日の面接で、何やりたいの?って聞かれて、販売って答えたら、じゃあ、好きなブランド言えってから、チョーヤバイ感じのセレクトショップ出しちゃって、それって違うだろって感じってか」
A:「ヤバいね、っていうか、この前も最終面接で部長かなんか前にいて、何か質問しろとか言われて、なんかあ、何も聞くことなくって、あーゆー時って、やっぱ、ご家族はとか、ご趣味はなんて聞いちゃったりしちゃヤバそうだし、ハハハ」
B:「やっぱあ。けど、最終面接って、けっこう緊張するってか、緊張しなくても、緊張してるフリで通すキャラって、好印象でいいかもって感じで」

 とまあ、こういうやりとりが続いていた。しかし、これは明らかに「やりとり」ではない。2人対面しながら、独り言を言い続けているようなものとしか思えない。たぶん、2人とももっとマジメに就職面接のことを考えているのかもしれない。しかし、会話となるとこういうものになるのだろうか。「情けない!」こう決めつけてしまう私はただのオヤジなのだろうか?これがイマドキの会話なのか?しかし、どこがどのように会話になっているのか?まったく意味不明だ。とにかく、耳に入ってきてしまうだけで、クラクラくる。しかし、こういう会話は、電車の中の高校生や大学生、若い人たちの間で、決して珍しいものではない。

 以前、若い人たちにインタビューをした時に、彼らは「傷つけること」、「傷つけられること」を、ことのほか怖がっていた。よほどムカツク相手でなければ、相手の話に異を唱えたくはないと言っていた。相手を傷つけてしまうからだと言う。一方、最近話題となっている『他人を見下す若者たち』(速見敏彦著,講談社現代新書)では、自分に甘く他人に厳しい、イマドキの若者像に共感が集まっているようだ。

 彼らを「やさしい」と見るのか、「自己チュー」と見るのか、「コミュニケーション不全」と見るのか。たぶん、本人たちにとっては、どれもあてはまらず、フツーのことなのだろう。昨年11月のHRI15周年記念フォーラムでの、平田オリザさんの発言を思い出す。「これからは、バラバラな人間がバラバラなまま、どうにかしてうまくやっていくコミュニケーション能力が求められるようになってくる。それを私たちは、協調性から社交性へと言っています」というくだりだ。

 では、先ほどのような若者たちのやりとりが「社交」なのか?私はやはり違うと思う。社交とは、その場しのぎの上辺の付き合いではないと思う。これまでの、なあなあ協調的コミュニケーションでもなく、バラバラ孤立的コミュニケーション不全でもない、社交的コミュニケーションの技術を個人が備えるようになった時、関係性の豊かな自律的な社会は実現するのではなかろうか。これこそ、これからを生きる技術だろう。
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「社交の秘訣は、真実を語らないということではない。真実を語ることによってさえも相手を怒らせないようにすることの技術である」
(萩原朔太郎『港にて』より)

(中間 真一)
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