8月20日から3日間、サンフランシスコにて開催されたシンギュラリティ大学グローバルサミットは、大学創設から10年目の記念イヤーということもあってか、世界64ヵ国から2,000人近い参加者が集う大盛況であった。ビデオレターを寄せたレイ・カーツワイル氏を始め、AI、ロボティクス、ブロックチェーン、ヘルスケア、エネルギー、食糧、交通、宇宙など、さまざまな分野で活躍する有識者や起業家たちのトークやディスカッションを通じて最新知に触れることのできる3日間であった。
テーマは多岐に渡るものの、通底する問題意識は「飛躍的なスピードで(エクスポネンシャルに)発展するテクノロジーと、漸進的にしか進化してこなかった人間や社会との間に生まれているギャップをどのように埋めていくことができるだろうか?」ということである。その方策としては大きく二つ、一つは人間自身や社会そのものを技術の進化に合わせてアップデートして適応させていくこと、もう一つは技術を人間に近づけていくこと。その両方がこれからの10年重要になってくる。
最先端の技術を利活用し、より良い未来をつくっていくためには、人や社会をアップデートあるいはトランスフォームさせなければならない。正しい意思決定や健康増進のため、AIを「自分の良き理解者」として味方につけていくには、人間の身体や行動に関するあらゆる情報をAIに与えていく徹底したデータイズム(データ主義)を加速させていく必要がある。ただしデータイズムはともすれば監視社会になりかねないため、データの所有権、ひいては政府や自治のありかた、経済、主義そのものの見直しが迫られる。さらに社会の大変革に向けたマインドセットをつくるためには働き方や教育、組織などの環境も変革の必要がある。
テクノロジーと人間とのギャップを埋めていくもう一つのやり方はテクノロジーを人間に近づけることである。その試みとしてとりわけ強く印象に残ったのがニュージーランド発のハイテク・カンパニー Soul Machines社の「アーティフィシャル・ヒューマン(AH)」のデモンストレーションである。
近年企業のカスタマーサービスにチャットボットなどの自動会話技術が採用されることが増えているが、AHは自動化システムと人間とのやりとりを単なる情報交換ではなく、いきいきとした感情的な経験にするための「顔」を持つAIである。Soul Machines社の開発する表情作製技術は映画『アバター』『キングコング』での採用実績と受賞経験もある。その技術をさらに発展させ実現したAHはすでに「デジタル社員」として、スコットランド王立銀行のカスタマーサービス、メルセデスベンツのカーナビシステム、オンラインドクターとしてのヘルスケアサポートや子ども向けの環境教育講師など、顧客と企業とのタッチポイントとなるさまざまな場面での導入が進められているそうだ。
Soul Machines社のAHの特筆すべき点は、人間の脳を模倣したバーチャルな脳神経系を備えていることだ。顧客がAHに満足そうな表情を向ければ、AHは顧客がポジティブ状態にいることを認識し、バーチャルな脳内にバーチャルなドーパミンとセロトニン(快楽ホルモン)を放出することで微笑みの表情を返す。人間の表情のニュアンスを感じ取り、AH自らの頭脳で、瞼や口角の上下、眉の動き、声のトーンやスピードなどを瞬時かつ繊細にコントロールしながら、人間の顧客との共感的関係性をつくることができるのだ。出身地を感じさせるような英語の訛り(この辺のニュアンスは私には汲み切れないが)や、しわやそばかすなど妙に生っぽい肌の表情までAHは非常に人間くさく、確かにチャットボットやスマートスピーカーと会話しているときよりも一段と深い経験を与えてくれる。
自動化されたシステムに人間性を与えよう(humanize)というアイデア自体は特別新しいものではない。このあたりは何十年も前から「ヒューマンインターフェース」とか「ヒューマンコンピュータインタラクション」と呼ばれる領域で随分と研究されてきてはいる。だが私はつねづね「ヒューマン」とか「人間らしさ」という概念が、いつでもポジティブな響きを持つものとして扱われていることにひっかかりを覚えてきた。
「人間らしい」要素の中には美点もあるが欠点もある。感情はいつも人間に良いふるまいばかりを起こさせるわけではなく、争いや犯罪の元凶にもなりうる。偏見や怠惰、不注意、忘れっぽさ、疲労なども人間の特性ではあるが賞賛すべき取柄でもない。こういったあたりの問題をエンジニアはどう考えているのかということはつねづね疑問であった。
その点、今回登場したアーティフィシャル・ヒューマンは、”Better Humanityの実現”と銘打っているだけあって、豊かな表情や共感性など「人間らしさ」の望ましい部分だけを増強し、一方で、正確さ、迅速性、安定性、学習能力、忍耐強さなどの機械の強みも取り入れた、人間と機械の“良いとこ取り”のまったく素晴らしい存在であった。ディスプレイの中の存在とはいえ見かけもやりとりもあまりに人間らしく、「よくできたテクノロジーだなあ」と思うよりも「よくできた人だなあ」という感想が先立つ。
その感覚はちょうど、高級レストランのスタッフやディズニーランドのキャスト、ベテランの外科医や救急隊員などの「どんな状況でも取り乱さず職務を遂行しながらも、相手に安心感を与えることも忘れない、よく訓練されたプロフェッショナル」の人々にいだく尊敬と信頼に近い。人間のプロを育てるよりも人工人間を育てるほうが効率的だろうから、将来はこのような「よくできた人(みたいなAI)」がどんどん増えていく可能性がある。
「よくできた人間」ばかりで構成された社会は果たして可能だろうか?理想郷なのだろうか?面白いだろうか?そんな社会の中で「人間らしさ」の欠点を残したままの生身の人間の生きる意味はあるんだろうか?
3日間のサミットを終えてそんな疑問が巡っている。
たとえば岡田美智男先生の「弱いロボット」やオリィ研究所の吉藤さんの「分身ロボット」は、人間の弱点を克服しようという発想とは逆に、人間の弱さ、脆さ、寂しさ、有限性…を受け入れた上でそれらを肯定的価値へと転じていこうという開発思想が見受けられる。私はそのような哲学にこそ深く共鳴するのだが、こうした発想は日本ならではのものかもしれないとも、今回のサミットに参加してみて思った。
Soul Machines社やシンギュラリティ大学の有識者たちが発信する人と機械の関係性の未来像は、居心地が良さそうなものばかりではない、ともすると人間の存在価値も否定しかねない、挑戦的なビジョンだ。人と機械の挑発的共生。だがこれはこれで面白い。