COLUMN

2016.09.01澤田 美奈子

ゲームへの感動と戦慄の正体

 この夏は、スマホ片手にウロウロする人、同じ箇所を行ったり来たりしたかと思えば突然立ち止まって熱心に画面を指でこする人、そしてニヤニヤする人、そんな行動をとる人々がいつのまにか集団になって公園や広場にたむろしている・・・といった世にも奇妙な光景が日本、世界各国で見られた。私もその光景の一部になっていたわけだが、ポケモンを探しに遠回りして帰宅したり、まめに買い出しに出かけるようになったり、初詣ですら億劫だった近所の神社の100段ほどある階段を昇降していたり、バーチャルなゲームのリアルへの影響力に、ふしぎな感動といくばくかの戦慄を感じた。
 
 ふしぎな感動というのは、仕掛け一つで人間の行動はこうもたやすく変えられるのか、という感動である。歩数計を持っても健康組合のポスターを見ても啓発されることのなかった「もっと歩こう」という生活習慣が、「現在地からちょっと足を延ばしたところにポケストップがある」というゲームの仕掛けによって簡単に促進されたのである。歩く目的は健康のためではなくポケモン探しや道具の補充だったとしても、歩いたという行動結果に変わりはない。
 めぼしいポケモンはおおかた集め終えた今現在、残念ながらたくさん歩くという習慣が失われつつある。新しいポケモンやアイテムの新規投入、バトルシステムの刷新を図るなどの変化があれば、飽きずに歩くモチベーションも維持できて良いのだが・・・。
 
 だがしかし本来モチベーションというのは内発的に生まれてこそ「ほんもの」だとされる。ゲームがあるから歩くというのは、ゲームがなければ歩かないということだ。行動の動機付けを、自分の内なる欲求ではなく、ゲームという外部のテクノロジーに求めているというのが、私が「いくばくかの戦慄」を感じるところでもある。ゲームに夢中になっているのではなくゲームに夢中にさせられているのではないか。操作していると思っているゲームに操作されているのではないか。大げさに言えば、人として大事な自律性の喪失への懸念である。
 
 人はなぜゲームに夢中になるのか。ゲームが人を魅了し、のめり込ませる要素というのは、現実世界で求めようとしてもパーフェクトには揃わない要素とも言える。ゲームの世界では、明確なミッションやゴールが設定されており、公正なルールがある。自分のレベルでちょうど処理できる範囲で設計された「ちょっと難しい」チャレンジからは刺激と興奮が得られる。全ての経験はポイント化されて成長実感があり、即時のフィードバックには達成感がある。
 現実はそうはいかない。人生にはミッションやゴールがあらかじめセットされているわけではないし、日常は新鮮な刺激や興奮にあふれてばかりでもない。チャレンジしても無意味で報いられないこともある。現実がそんな風に不完全だからこそ、ゴールやモチベーション、チャレンジや達成感を自動生成してくれるゲームの世界に没入することが、人の心を和らげる。
 
 とはいえポケモンGOは、バーチャルとリアルを重ね合わせ、従来仮想世界に没入することで味わっていた満足感を現実空間のなかで経験できるようにした点に、斬新さと未来っぽさがある。この夏、私たちが目撃した「ゲームの仕掛け一つで人々の行動や習慣が変わる」という事実は、人間の柔軟な可能性を示していると同時に、人間のあやつりやすさ/あやつられやすさも示している。この「あやつりやすさ/あやつられやすさ」を不安要素や危険因子としてではなく、ポジティブな素質として捉えて、おもしろく活用できはしないだろうか。「その気にさせれば多少の努力なら惜しまず、割と面倒な行動も率先してやる」という人間の素養を、現実世界により生きがいや達成感、誇りや物語を見出すことに活かせないだろうか。
 人間が操作しているのか、実のところ操作されているのか。そんな禅問答はもはや意味がないかもしれない。ある時は夢中になったり、ある時は夢中にさせられていたりといった双方向で対等でリバーシブルな、人類とテクノロジーの新しい関係を夢想するときが来ている気がする。そんなワクワクとハラハラが混じったような予感が、感動と戦慄の正体だったのかもしれない。
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