何年か前に、慣れ親しんだ街を車椅子で散策してみたことがある。
車椅子で体験する世界は、ふだん自分の足で自由に動き回っている世界と同じ空間にありながら、全く別物のように感じられた。
車椅子用のお手洗いがみつからない。ノンステップのバスが来ない。わずかな段差に行く手を阻まれる。
何をするのにも、いつもの二倍・三倍の体力と時間を要した。
しかし、私が本当に苦しめられたのは、物理的な環境の不便さではなかった。
想像していた以上に、周囲の人々は好意的に力を貸してくれた。
ビルの入り口のドアにさしかかるとさっとドアを開けてくれる、狭い通路で道を譲ってくれる、大きな横断歩道で声をかけてくれる、などの行動の徹底ぶりには驚かされた。困っていないかを気をつけて見ていて積極的に力を貸してくれ、お礼を言うと笑顔で応えてくれる。周囲の人の手助けで、物理的なバリアを乗り越えることが何度もあった。
しかし、私を苦しめたのもまた、この周囲の人々のまなざしであった。
エレベーターに乗ったときのことである。狭い空間の中で、周囲に寄ってスペースを作ってくれた人々が、私が乗り込むのを待っている。見下ろす視線に囲まれて緊張しながら乗り込むと、周りの人々もまた緊張しているのをひしひしと感じる。
「一人で大丈夫かな」「助けてあげよう」「でもどうしたらいいだろうか」「どうしよう、どうしよう」
・・・そんな心の中の声が聞こえてくるようだった。
エレベーターを降りるときになると、その緊張がピークに達した。少し遠巻きに心配そうに見守る人々の視線の中を後ろ向きでぎこちなく降りる瞬間は、実際よりも長く感じられた。
もちろん、慣れない手つきでぎこちなく動く姿が、周囲の人々を不安にさせてしまった部分もあっただろう。本人がもっと自信を持って行動していれば、周囲のまなざしも違っていたかもしれない。
しかし、反対の立場を思い返してみても、「手助けしたいけれどどうしたら良いのかがわからない」という状況は少なくない。物理的なバリアフリー化が進められ、公共交通機関などのスタッフによる「サービス」は充実してきているが、「このような場面ではこのような手助けがあると良い」という知識が、一般の人々の間で共有されていないのである。
必要な手助けは状況によって異なるものであるから、その場その場で求めに応じたり、声をかけたりしながら、直接コミュニケーションをとって対応する必要があることも多いだろう。
しかし、たとえばエレベーターの乗り降りや、段差や傾斜のあるところの通行など、既に定着してきているドアの開け閉めのように、ある程度場面ごとに適切な対応を知っておくことのできるものもある。物理的なバリアフリーやサービスの充実によって、車椅子で生活する人が一人で外出する機会がますます増えていけば、そのような場面に居合わせる機会もさらに多くなるはずである。
車椅子で街に出る、ということによって生じる不安やストレスは、単に物理的に不便で、行動が制限されることにのみよるものではない。物理的な環境と同様、あるいはそれ以上に大きなインパクトを持っているのが、周囲の人々の態度や視線である。そしてそれは、必ずしも差別的な態度や好奇のまなざしとは限らない。気遣い、心配するあたたかなまなざしもまた、見えない圧力となり得るのである。
「然りげ無い」という言葉がちょうどいい。それは実は、フォーマルな「サービス」よりも難しいことだと思う。しかし、本当の意味で「バリアフリー」を実現するためには、私たち一人一人がその意識を持つ必要があるのではないだろうか。
(小山梓)