ユビキタス・コンピューティングとは、1988年、パロアルト研究所のマーク・ワイザー博士が提唱した概念だ。ユビキタスはラテン語で「遍在」という意味で、ワイザー博士は「コンピューターが日常生活のいたるところに入ってくる未来」を展望した。
それからわずか30年足らずの間に、コンピューターは劇的に小さく安くなり全世界に普及した。特に2007年、iPhone発売以降、あらゆる人々がスマートフォンを肌身離さず持ち歩き操作するようになり、「いつでもどこでもコンピューティング」のビジョンは一気に現実化したかのように見える。もはや当たり前すぎて、「ユビキタス」という言葉自体、あまり耳にしなくなった印象さえある。
UbiCompという国際会議は、その名の通りユビキタス・コンピューティングをテーマにした、有力な学会の一つである。16回目の開催となる今年は、アメリカのシアトルで開催され、世界各国から約800名もの参加者を集めた。世間では「ウェアラブル」だとか「IoT(Internet of Things; モノのインターネット)」といったコンセプトが流行しているが、UbiComp2014では、そんな巷のブームよりも幾分進んだ議論が展開されていた。
今回初参加してみてまず意外だったのが、近ごろ世間を賑わしているメガネ型端末やスマートウォッチを装着している参加者があまりいなかったことである。参加者の多くは時代を先取りするギーク集団であるはずで、「いかにも未来的」なデバイスを身に着けた人々がうじゃうじゃいるという期待があったのだが、UbiCompで出会った人々が愛用していたのはごく一般的なスマホやラップトップであった。
意外に思いつつ、彼らのプレゼンテーションやデモを見聞きする中で徐々に気づいてきたことは、これからのコンピューティングに求められているのは、「自然」で「普段の生活や習慣のジャマをしない」テクノロジーなのではないかということだ。
「自然」で「ジャマにならない」とは、たとえば、何か計測するためにわざわざウェアラブル・デバイスを自分が装着するのではなく、生活環境の側にセンサーを埋め込むといった発想である。今のIoTの"モノ"としては、デジタル家電や端末が想定されているが、今後は昔から生活の中にある家具や日用品(イスやソファ、壁、じゅうたん、フォークやスプーン等)がセンシングポイントとなって、ユーザーに負荷感を与えずに人々の情報を集めるようになるのである。
そんな「センサーが日常に潜む社会」を、研究者たちは魅力的なビジョンとして提示する。だがこのビジョンは、果たして社会にも受け入れられるだろうか、が気になる。研究者は、機械をより「賢く」するために、機械に人間を「理解」させ、ユーザーとその状況に沿った適切なサービスや情報提供を行うための基盤を築きたいのである。そこにはイノベーションの予感がある。一方で、張り巡らされたセンサー・ネットワークが、自分の一挙手一投足を記録し分析するような未来像に対して、オーウェルが『1984』で描いたようなディストピアを想像し、抵抗を感じる人々も少なくないようにも思える。
プライバシー観とイノベーションのジレンマを解消するための試みも、実はUbiCompからも徐々に始まっている。「親が子どもとの信頼関係を壊さずに子どもを見守るセンサーシステム」や、「プライバシーを侵害しないライフログ・カメラのデザインの提案」などなど。工学と、心理学や社会学、人類学といった人文学的視点とを融合させた、intimateでcomfortなユビキタス・コンピューティングと人間とのあり方への模索は、最もホットな研究トピックの一つにもなっているようだ。
圧制者<ビッグブラザー>でも、人間の行動や思想の管理を企む<思考警察>でもない、このような若くて賢いエンジニアたちの人間的感受性が、オーウェルの警鐘を裏切るような楽しくておもしろい新しい未来シナリオを導くよう、願ってしまう。