桜が花開き、四月が始まった。三月は、卒業式など思い出を振り返る機会の多い月なのに対し、一転、四月は進学や就職と未来に眼差しを向ける月となる。また、厚い雲の下で前かがみでポケットに手を入れて足元に目が行きがちな冬から、コートを脱いで胸を張って青空に映える桜の花を見上げる春へ、私たちの姿勢の大きな変わり目でもある。花粉の飛散には困ったものだが、やはり春の訪れはいいものだ。
季節は、このように巡ってきたが、社会も同様に春を迎えつつあるだろうか?なんだか、最近の目立ったドラマ、映画、小説をたどると、「昔はよかった」「昔は楽しかった」「昔は勢いがあった」「昔は絆があった」と、中高年世代が後ろを振り返って懐かしむ内容のものが多いのが気になる。そして、SFのような未来モノに元気が無い。 昔を知らない若者たちは、どうしているだろう?大学生に尋ねてみると、テレビも小説も読まないという連中が多い。LINEやfacebookなどのSNSにしても、リア充にしても、とにかく自分の周囲の「イマ」この時が楽しければいいという。先のことは、「どうにかなるんじゃね」と、あまり関心が無さそうだ。
なぜ、これほどに未来に関心が無くなっているのだろうか?それは、関心が無いのでなく、過去から現在、そして未来というように積み上げ型に見通す未来、帰納的に予測する未来というアプローチが通用しなくなっている時代背景にありそうだ。みんな、未来はこれまでの時代とは非連続だということを感じとっている。未来を考えようとすると、不確実なことばかり、不安なことばかり、不自由なことばかりが見えてきてしまうのが現在なのだ。
だからと言って、前方の景色から目を背け、後ろを振り返って安心しているだけでよいはずはない。そんな未来への構えを持たない生き方では、早晩、私たちの暮らしは不安定で悲観的なものに転げ落ちていってしまう。私たちは、今までとは違う未来の見方をする必要があるのだ。
今までとは違う未来の見方とは何か?それは、まず自分なりの未来ビジョンを持つことだ。その上で、未来に影響を与える様々な要因をあてはめて、未来へのシナリオを描き出すというアプローチだ。それを、様々なステークホルダーが集まって、共感と共振を繰り返しながら進めるアプローチと言えるだろう。
このアプローチは、最近では「フューチャー・セッション」と名づけられて評判をよんでいるが、私たちHRIでもその活用に着手し始めている。それは、ロジカル思考やシステム思考というよりは、デザイン思考のアプローチということになる。また、帰納的な未来予測というよりは、演繹的な未来予測ということになる。
では、このアプローチの問題は何か?私は、"Foresight"と"Insight"ではないかと感じている。主観的な未来ビジョンという縦糸が、決して独りよがりのバラバラなものではなく、しっかりとステークホルダー達の共感を得られる未来シナリオとして編み上げられるために、最適な客観的ファクトを横糸として見つけてくることが大きなポイントになるはずだ。それは、一義的に決まるファクトではなく、意外な観点からのファクトであることの方が多いのかもし
れない。また、気心の知れた身内の仲間内によるよりも、多様な価値観を持ったメンバーから編み上げられた方が強い共感が得られるだろう。だからこそ、一人ひとりのメンバーが軽い思いつきではなく、深い洞察からビジョンを搾り出すことが大切になる。
"Foresight" & "Insight"、先を見るために、コトの本質を洞察する。非連続な未来だからこそ、ありたい未来を描き、そこに向かって力を注ぎたい。ちょっと難易度は上がるかもしれないが、成熟社会の未来予測のあり方なのではないかと思う。四月一日の朝、自宅の門を出てふと見上げると、桜の花が満開だった。やっぱり、見ようとしなければ、見たいものは見えないのだ。