COLUMN

2011.10.01中間 真一

シリーズ「ポスト3.11のあたりまえ」#1穏やかな共生の時空間

 3月11日の東日本大震災から半年が過ぎた。報道で伝えられる復興の槌音や、被災地の方々の前向きな取り組みの姿には、まさに人間の生きる力を感じる。しかし、およそ2万人の命と、多くの生活を奪われた後の悲しみは消えることはないだろう。
 そんな中、メールやfacebook上では半年以上経った今でも友人知人たちの被災地での献身的なボランティア活動の様子が次々に伝わってきている。私にできたことは、活動を手がける人たちに求めに応えて助言や激励をすることくらいだが、それでも少し臨場感を持てる機会になっている。
 そういう日常から湧き起こるのは、「あの前」と「あの後」は元どおりの延長線上につながった方がよいのだろうかという疑問だ。もちろん、元どおりになった方がよいことはたくさんある。しかし、私たちの社会の新たな"次元"をつくるチャンスでもあると感じる。そこで、今回のテーマを「ポスト3.11のあたりまえ」とした。HRI仲間たちは、どう考えているのだろうか。


 私の提案する新次元は「共に生きる」ということだ。先月、富山市にあるNPO「このゆびとーまれ」というデイサービスの場を訪ねる機会を得た。これまで何度か高齢者ケア施設には足を運んだことがある。しかし、今回は施設の前でタクシーから降りたところから雰囲気が違った。もちろん、事前にこの施設のことを調べていた。赤ちゃんからお年寄りまで、障害があってもなくても、ひとつ屋根の下で「家族」のように過ごせる施設であると承知して訪ねていた。
 まさに住宅街の普通の一軒家、私がタクシーから降りるや、近くにいた若者たちが次々に「おはようございます」、「いらっしゃい」、「あっ、着いたよ」と、我が家への来客を歓待するように、日焼けした元気な笑顔であいさつを投げかけてくる。オッチョコチョイな私もすぐにその気になってしまい、フレンドリーでハッピーな気持ちになる。知り合いの家に着いたかのような気分だ。じつは、その時点では、若者たちの障害を私は確信できずにいたのだ。

 玄関すぐの居間には、お年寄りたちが丸いテーブルを囲んでいた。隣の和室で代表の惣万佳代子さんから話しを聞き始めたが、私たちの隣では赤ちゃんがすやすや寝ている。その姿を横で見守るようにおばあちゃんが洗濯物を畳んでいる。その間を、障害があっても手伝えることを見つけて若者たちがいきいきと仕事をしている。介護する人なのか、される人なのか、職員なのかボランティアなのか、健常者なのか障害者なのか、見分けがつかないくらいみな場に馴染んでいる。
 しばらく話しを聞きながら、周囲の様子を心と体すべてで感じ取ろうとしていた私は「なんと、穏やかな時空間なのだ!」と驚いた。こんな穏やかさは、かなり久しぶりの感覚だ。現場の観察を大事にする習性から、ほとんど丸一日、私たちもその場にどっぷり居座らせていただいたが、この「穏やかさ」の源泉は「あたりまえに共に暮らす場」ということに尽きると感じた。

 代表の惣万さんが語っていた「本物の共生」の意味は、頭ではなくて終日この場に身をおいたからこそ感じることができたものがあった。そして、この「共生」は今回の震災後の避難所に見られた「つながり」や「支えあい」に通じるところもあるけれど、それでも「避難所の実情は、本物の共生とはいえなかった」というメッセージの意味も理解できたような気がした。その場に集いたい人が誰でも居場所にできる「共生の居心地よさ」そして「共生の穏やかな時間」、これを私はポスト3.11のあたりまえの一つにノミネートしたい。それは、競争社会や効率社会、市場社会という現次元とは異なる次元となる。現次元から離れるのは大きな不安が付きまとう。しかし、その兆しは震災後に確実に膨らみ始めている。いつ新次元にジャンプするか、そんな段階にある日本ではなかろうか。ダイバーシティなんてカタカナを使わなくても、本物の共生は素直な人間らしさから生まれるはずだ。
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