友人たちとバカンスに出かけてきた。滞在先にコンドミニアムを選んだので、食事・洗濯・食器洗い・ゴミ出し等、日常家事をやりながら暮らした。10年来の友人ではあるがこうした形で共同生活を送るのは初めてだったので多少の不安はあったものの、「自炊に慣れている」「整理整頓派」「旅先ではやたら早起きになる」等、各々のちょっとした属性をいかして役割分担しながら過ごすことができた。前回の内藤さんが書いていた「パッチワーク型」の支え合いとはこういうことかもしれない。
さて今回のテーマ、「おひとりさま」である。おひとりさまになる理由というのも様々だが、そのメインは「単身世帯」つまり「家族を持たない人」である。中間さんのコラムでは、おひとりさま社会を考えるにあたって"家族外"の有機的つながりをどのようにもつことができるだろう、との疑問がいくぶん訝しげなトーンで呈されていたが、今回は改めて「家族って何だろう」という問いかけから、家族の担保していた機能をおひとりさま社会においてどう提供していけるかについて考えてみたい。
今回の旅での共同生活は、短期間かつ部分的ではあったが、もしかしたら家族ってこういうものなんだろうか、とふと感じる場面があった。
"こういうもの"と思った中の一つめは、家族は「最初は血のつながりのない他人同士がひとつ屋根の下で一緒に暮らし始める」というところからスタートするということである。生まれも育ちも違う人間が共同生活を送るというのは、楽しいことばかりでもない。今回私も友人たちと四六時中顔を突き合わせる中、ストレスを感じる場面がなかったと言えば嘘になる。例えば、寝起きが悪い、濡れたバスタオルをどこにでも放置する、暑いのに寝るときには冷房を消す、といった彼女らにとっては日常習慣なのだろうが、私はなかなか理解しがたいことだった。(逆に私のほうも無意識に何かしら迷惑をかけたとは思う。)
親しい友人と言えども、30年近くそれぞれの人生で培った習慣や文化・考え方の違いは当然存在するんだなと改めて思った。そしてそれは、日常をとことん一緒に過ごしてみて初めて見えてくる側面でもある。問題は「自分との習慣や文化の違い」を見つけたとき、どう対処するかだ。それが家族を持つ人、おひとりさまとして生きる人の分水嶺かもしれない。
一時期「私を変えない結婚」というフレーズがもてはやされた。自分の世界を大事にしたい、他者の干渉・依存を好まない女性にとって、理想的な響きである。だが現実問題、そんな都合の良い話はない。他人と暮らしていくには、相手に振り回されたり、すりあわせるために自分を変える、という多少の努力は必要になる。おひとりさまが若年層を中心に増加している背景には、そういった他者とのすりあわせに要るコミュニケーションを厭う人が増えたこともあるだろう。
家族を持つ人も、別に相手とのすりあわせを好んでやっているわけではないと思う。ただ相手が明日もこれかもずっと支えあっていくパートナーなので、理解や妥協のための労を惜しまないのではないか。私も友人たちと四六時中一緒にいて、多少の齟齬は発見されたけれど、それに目くじらを立てたり相手を嫌になったり、ということがないのは、彼女たちとこれからも友人を続けていきたいと思っているからである。この「相手との永続的関係性を志向する」というのは、家族とは何か、の特徴の二つめだと思う。
そんな「永続的関係性」、もっと平たく言えば、「毎日毎日いやおうなしに向き合う人間関係」を、"家族外"の場で提供することは可能だろうか?
ふと思い出すのは、数年前取材した「きんしゃいきゃんぱす(通称きんきゃん)」と呼ばれる、九州のとある商店街の一角にある空間のことである。そこには、地元の子ども、学生、商店の大人、お年寄りなどが毎日たむろしており、昭和によく見られた"路地裏"の風景と重なる。昔は口うるさい"かみなりおやじ"が、地域の子どものしつけ機能も担っていたと聞くが、「きんきゃん」でも、子どもが社会的に間違ったことをすると、きちんと叱る大人がいるという。叱られた子どもも、その日は悔しかったり気分がふさいだりするだろうし、叱った方もちょっと言い過ぎたかなと反省するかもしれないが、また翌日以降も顔を付き合わせていく中で、自然と関係は修復され深いものになっていく、という話を聞いた。
こういった環境を特に都市部で提供するのはハードルは高いと思うが、家族を持たない者たちにとって、「また明日」がある人間関係を提供する場というのは非常に重要だなと感じるエピソードであった。
さて、家族とは何か、その要素の3つめは「世代の幅」、これこそがおひとりさま社会を迎える上で、もっともシビアに考えなければならないことでもある。田口さんのコラムにもあったように、おひとりさまが人生で直面する大きな困難は、介護、あるいは要介護には至らずとも老化に伴う生活機能低下に、どう対処するかである。考えてみれば、30歳前後の世代の開きがある人々の集合体である「家族」という組織は、ケアする/されるという協力関係を築く上でも、理想的な人員構成ではある。おひとりさまであっても、自分より30歳年下、あるいは60歳年下の人たちと親密なネットワークを築けていて、いざというときサポーターになってくれる、ということであれば良いのだが、なかなか現実的には難しい。
そんなことを考えている折に、私はあるデイケアハウスの存在を知った。富山にある
「このゆびとーまれ」」という施設である。多くの介護施設はお年寄りばかりがいるのが普通だが、ここでは高齢者だけでなく、子どもから大人、障害のある人、元気な人、誰でもが来たいときにいつでも訪れることができる場所だ。ホームページには、お年寄りが子どもをあやしたり一緒にお風呂に入ったり、子どもが寝たきりのおばあちゃんの枕元で様子をみてあげたりしている写真が掲載されている。私には写真に写っている彼らが、どうしても"家族"にしか見えないのである。血のつながっていない他人だとしたら、このなんともあたたかい雰囲気は何なのだろう?
幸いなことに今月、この施設を訪問させていただく機会を得た。本施設を通じて、未来型"家族"そして"家"のありようを考えることができれば、と思っている。