シリーズ「楽園のパラドックス」#4Let's start living for the future paradise
グラスゴー、グアム、広州と偶然にも海外シリーズが続いているが、今回はシリコンバレーとサンフランシスコへの訪問から考えた「楽園のパラドックス」について綴ってみたい。
California dreamin' on such a winter's day と歌われているように、人々は明るくあたたかい太陽のイメージをカリフォルニアに夢見てしまう。実際梅雨の日本を脱出して迎えてくれた広大な土地と青い空、湿度と無縁の風の爽快さは格別で、訪問先のスタンフォード大学やシリコンバレーの企業の開放的な文化や創造的な人たちに触れる中、こんな自由を謳歌できる国で暮らす人々が本当に羨ましいと感じた。
―だがそんな安易な憧れは、やはり短期的にしか滞在しない者の気楽さなのだろう。
自由で若いこの国はそれゆえの問題を抱えている。人種問題。格差問題。医療問題。現地で暮らす人からは、老後弱ったときの生活の"足"はどうなるのかといった話や、家族という単位がこの国ではいともたやすく崩壊するという現実について聞かせてもらった。サンフランシスコでは繁華街から一歩踏み入れた路地で暮らす人々をたくさん見かけたが、彼らの社会からの隔絶や孤独は、日本のそれ以上のように思えた。自由という一見すばらしい権利にも功罪があり、「楽園のパラドックス」がここでも露見する。畢竟すべてのことがらには光と影の両側面があると私たちは諦めなければならないのだろうか。
しかしあまりシリアスになるのもこの土地の陽気に似合わず、すべてのことには表裏があるにせよそれでも最善の「楽園」で暮らすためにはどうすればいいのだろう?と建設的な問いかけを頭に置きながら、再びこの国に手がかりになるものはないかと見渡してみたとき、いくつか気付くことがあった。それは「無知の自覚」と「思考停止に陥らず議論し続ける」ということだ。これは、前回の内藤さんのコラムにあった「無自覚に受け入れない」「その場その場で改訂していく」というメッセージとも深く相通じている。
アップルやグーグル、ヒューレット・パッカードなど、西海岸発の企業がイノベーティブだと評される理由としてよく言われるのは、「環境への柔軟に適応できる」「常識やルールそのものを変える」「リスクを恐れない」といったことである。
それをさらに突き詰めてみると、慣習や伝統にこだわらないで、新しいことを常に発想し発信し続ける経営哲学や事業内容の根本には、「無知の自覚」があるように思える。つまり「私は本当に正しいのだろうか」「ここが果たして最善の場所と言えるのだろうか」という健全な懐疑心を持ち続けているから、彼らは他者と徹底して議論を交わす手間を惜しまないし、自らの過去の成功体験すら容赦なく捨て去っていくことができるのではないか。いうなればそれは民主主義精神そのものでもある。
今回の出張でイノベーティブな製品やサービスを次々に世に送り出しているコンサルティング企業への訪問の機会を得た。話を聞く中で非常に印象に残ったのが、「ダイアローグ」という言葉であった。
第一に彼らは社員同士のダイアローグを大事にしている。日本企業のかしこまった会議室ではなく、コーヒーとスナックをつまみながらカフェのようにリラックスして議論できる空間が社内のあちこちに設置されている。
また、顧客の潜在ニーズを発見するためのフィールドワークは彼らが最も大事にしているところだ。いわばつくり手と使い手のダイアローグである。つくり手自らが現場に入って使い手の日常や深層心理を理解し、つくり手の思い込みが裏切られる瞬間や、思いもよらなかったニーズを捉える瞬間を、彼らは心から愛しているように思えた。
つまり彼らは、常に視点を変えるための準備をし、自分自身が変わるための機会を周到に用意しているのである。それがすべてであると言って良いかもしれない。それこそが、見せかけでなく真の意味で成長し創造性を発揮し続ける企業や人間を育むエネルギーになっているように感じられた。
シリコンバレーで仕事を終え、立ち寄ったサンフランシスコは、坂道の多さもさることながら、人種の多様性が印象的な街だった。かつて黄金を夢見て世界各地から移住してきたものの、実際金は採取できず、職にもあぶれ、かといって故郷にも帰れないという人々が、新しいまちをつくり、文化をつくり、新しい豊かさを見つけている場所であった。
どこかに平穏に暮らせる楽園がある、という夢は残念ながら捨てたほうがよさそうだ。しかし絶えず変わっていける、疑い迷うことができる、現状をつくり変えていける「自由」は、未来への楽園への道を見出す鍵ではないだろうか。