COLUMN

2011.05.01中間 真一

シリーズ「楽園のパラドックス」#1「楽園のパラドックス」を超えて

 五十日前の三月十一日正午前、私はイギリスに向けて成田空港を発っていました。そして、搭乗機がヒースロー空港への着陸態勢に入る少し前、機長のアナウンスにより東北地方で発生した大地震を知らされました。現地のBBCニュースは、凄まじい勢いの津波、コンビナートの火災、原発の爆発などの映像を繰り返し流していました。翌朝の新聞は、一面全面が津波の写真でした。私は、イギリスからの帰国後「地震の恐怖を実感しなかった浦島太郎」と言われましたが、この大震災を遠く異国の人々と共に見聞きし、たぶん日本で実感したのとは違う感じ方で、いろいろと考えていたのでした。

 地震発生の翌日土曜日の夕方、スコットランドのグラスゴーに滞在していた私は、「明日の日曜、グラスゴー大学の教会で、日本の被災地に向けた特別礼拝を行うからいっしょに参加しよう」と誘われました。早速、そのような礼拝が予定され、私にも連絡が届くという宗教のネットワークの力に驚くと共に、その礼拝への関心と自らの安堵のためにも、私はクリスチャンでもないのに、異国の地のキリスト教会から母国の被災地に祈りを向けたのでした。

 チャペルに入り、知人夫妻と着席して待っていると、牧師と聖歌隊が入場してきました。そして、荘厳なパイプオルガンの音が、重く、高く、響きわたり、祈りの空間を充たした時、私は、人間の知恵や力など及ばない大きな場の空気を、有無を言わさず感じさせられて揉みほぐされたのでした。まさに、マクルーハンの言ったとおり「メディアはマッサージ」だったのです。そして、祈りとは、人間の弱さを確認するための遺伝的プログラムなのではないかと感じました。また、礼拝に集う人々の様子からは、自分たちの弱さを前提につながっているコミュニティというものを感じさせられました。

 それは、特に礼拝後に教会のすぐ近くのホールに場所を移してのティーパーティーで強く感じました。礼拝が終わると、紅茶とクッキーで集まった人々がなごやかにおしゃべりを楽しむ場と時が用意されているのです。そこで、私は初対面の多くの方々から、被災へのお見舞いの言葉をかけられ、このような時に異国に滞在している私に優しい言葉をかけていただきました。英語で自由にやりとりできる私ではないにもかかわらず、本当にホッとできる時でした。

 こうして、私は今回の大震災を、遠くから、遠くの人々と共に感じていたせいかもしれないのですが、被災による直接の不安や悲しみよりも、震災が意味する時代の大きな転換ということに強く関心が向いてしまったようです。その一つの側面には、「科学技術の進展は、限りなく人間、社会、自然を制御可能な対象としてカバーを進め、豊かさの拡大を保証する」と思い込んでいたことからの転換ということがあります。

 しかし、このような成長社会幻想に警鐘を鳴らしたことは以前にもありました。1972年にローマクラブより発表された『成長の限界』もその大きな一つでした。また、ここで思い出されるのが、ローマクラブが1997年に発表した『雇用のジレンマと労働の未来』です。そこで述べられていた印象的な言葉に「楽園のパラドックス(逆説)」というものがありました。それは、「生産性が最高度に上がった社会では、少人数の労働で多くの生産が可能となり、人々の需要が満たされる結果、皮肉にもほとんどの人が失業することになる」というものです。

 私は、この「楽園のパラドックス」とは、雇用問題に限らず、工業社会、文明社会の進化の中で、私たちが享受してきた様々な豊かさの多くの面に適用できるのではないかと感じるのです。楽園化する社会や生活の中で、私たち人間が忘れてきたもの、忘れようとしてきたもの、それらがそろそろパラドックスとして顕在化し始める時期であるとしたら、それは大きな大きな危機であり、大きく大きく舵取りをすべき時代の到来と言えます。

 原子力発電に依存しなくては必要電力量を確保できない社会や生活の現状、ケイタイや情報端末に依存しなくてはコミュニケーションできないという現状、このような例を挙げ始めると、じつは枚挙に暇がないほどであることに気づかされます。私たちは、20世紀末の工業社会の高度成長期を経て、ある種の「楽園」に近づきつつあるのは確かです。しかし、その一方で足もとに「楽園のパラドックス」が見え始めてきました。それが、自然災害と共にあまりにも大きなダメージとして襲ってきたのが、今回の原発事故のように思われます。

 やはり、大きな転換期にあることは確かなようです。それは、生き方の転換期とも言えるでしょう。これまでの常識を疑うことが必要になっています。これまでの深夜でも真昼のような明るさが必要と考えるのが常識なのか?節電した後の明るさでも大丈夫なのか? これまでのように他人と関わる煩わしさを避けて自分の楽しみや満足を追求すればよいのか?それとも、コミュニティの絆づくりや支え合いが必要なのか? 小さなことから大きなことまで、さまざまな私たちの暮らしの確認と転換が必要とされているように思えてなりません。それをやり遂げた先にこそ、21世紀のヒューマン・ルネッサンスが実現するのではないかと思います。そんなわけで、今回のシリーズは「楽園のパラドックス」として、研究スタッフのそれぞれの見解を述べてもらおうと思います。
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