MONOLOGUE

2021.05.16

機械の人間化、人間の機械化
~ 愉快で豊かな自律社会の到来を邪魔するもの ~

 SINIC理論も、原始社会以来の長い人類史を経て、そろそろ未来予測のゴール「自律社会」を朧気ながら見据えられる最終コースにさしかかっている。前回の独白でもつぶやいたとおり、ゴールとなる自律社会は、コンヴィヴィアルな共に愉しい社会のはずだ。その社会を引き寄せるために、これからの人間は、最後の胸突き八丁を越えるために「自律人」に変容を遂げる必要がある。片や機械の側では、既に人工生命、人工知能、ロボット分野の科学技術に見られるとおり、「自律機械」への進化の加速度を増しているようだ。

 人の自律と、機械の自律、私は機会のあるたびに、「人の自律は実現可能性がある。けれど、自力での実現は、かなり苦悩の時を必要とするだろう。たぶん、今の組織や社会の手強い規矩の構造と社会の慣性力が、僕らの変容を邪魔するだろう。一方、機械の自律は実現不可能だろう。けれど、当分の間は「自律風」機械が次々に勢いよく登場してくるはずだ」と、主張し続けている。

 こういう私のとらえ方は、さほどユニークなわけでもない。東ロボくんプロジェクトなどは、それを感覚でなく、しっかり技術論として検証している。「人間は「問い」を自らつくれるが、機械は「問い」を自己生成できない」という論調に僕も大いに同感だ。しかし、この大前提は盤石なのか?という不安は増している。はたして、人間は「問い」をつくる力を使っているだろうか?磨いているだろうか?機械は、日増しに進化を加速ささせている中で。

 そこで、なぜ「問いを立てる」ことが、AIや機械にはできないのか?というところから大雑把に考えてみる。すると、AIや機械には「なぜ?」、「どうして?」という気持ちを起こせないからだということが取り上げられる。知人のエンジニアは「なぜ?」という問いの生成は、知識ベースに基づいたアルゴリズム化を実現できると喝破していた。しかし、そもそも人間の「なぜ?」はアルゴリズムで導き出されているだろうか?少なくとも、僕自身の「なぜ?」は意識的な論理式をたどっていない。もっと無意識で瞬発的で、非連続的で、知識ベース以上に体験ベースが作用していて、だから自分と世界を同時に想像できて、世界を自分の中に一気に取り込んでいるような気がする。人間の想像とか、共感や共鳴、共振と、機械のそれらは基本的に別ものなのではないだろうか。

 このあたりから、この人間のなせる技の今後が不安になってくる。情報技術の飛躍的発展で獲得した、ほぼ無限の情報収集が可能な環境で生きる現代の僕ら人間は、どんどん知識ベース型の論理的思考や効率的行動に傾いてきているように思えるからだ。すなわち、機械が人間化してきているように見えるのは、人間が機械化していることによる相対的な結果なのではないかと思えるのだ。

 限られた個人の体験を頼りにした想像の力よりも、無限大のデータ之処理から、効率よく抜けなく最適解を導き出すショートカットルートを探せるアルゴリズム型の思考と行動を偏重する価値観が、特にビジネスの世界で高まって、若い未来世代たちも、その価値観の罠につかまっている。その結果、機械には持てず、人間だから持てた「あそび」が、人々の思考や行動から削がれていってはいないだろうか?心配し過ぎだろうか?

 僕は、これって、人間が機械化に向かっているのだと感じてしまう。「人間風」の機械と、「機械風」の人間で、結果的に、「機械」らしい世界に向かっているのではないか。きっと、それではコンヴィヴィアルな「自律社会」は到来しないし、その先に「自然社会」も望めない。やっぱり、人間が、もっと人間らしさ、すなわち想像、共感、共鳴、共振する力を高めて自律していくため、そのために機械に何をしてもらうかという問いに設定し直した方がいい。

 オムロン創業者の立石一真は、「機械にできることは機械にまかせ、人間はより創造的な分野での活動を楽しむべきである」という企業哲学を遺した。まさにこれなんだ!機械の人間化ではなく、機械には機械にできることを任せきろう。そして、人間が創造的な分野での活動を楽しみやすくする機械、技術を目指していこう!そのためには、技術にアートがもっともっと食い込んでくるといいように思えてならない。

そうだ!愉快で豊かな自律社会へのセカンド・ルネッサンスだ!

ヒューマンルネッサンス研究所 所長
中間真一

【参考サイト】SINIC理論の解説記事
https://bizzine.jp/article/detail/5875

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