「学び」の問題を考える「てら子屋」としては、今や大騒ぎの教育再生問題にふれないわけにはいかなさそうです。私の考えは、機関誌『てら子屋』vol.8でも述べたとおり、とても簡単です。教育基本法に謳われているとおりのことを、子どもたちの学びの場で実現できればよいということです。「教育は人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行う」この教育の目的に、みじんの反論の余地も無いでしょう?
この教育の基本にそって、教育の現場ができあがるというあたりまえのことが、なぜできなくなってしまったのでしょう。総理大臣も文部科学大臣も、学校の先生たちも、子どもたちの親たちも、みんな「善い教育」「良い学校」に向かおうと懸命になっているように見えるのに、表れてくるのは事態の悪化ばかりのようです。なぜでしょう?
確かにひどい先生もいるでしょう。しかし、それは今に始まったことではありません。僕らの小中学生時代からいましたし、子どもはちゃんとそれを見抜いていました。そして、志の高いよい先生もちゃんとわかっています。私はふと、「これってじつは、子どもの教育問題ではなくて、大人の生き方問題じゃないの?」と思ってしまいます。それは、「本気になっていない生き方の問題」と言ってもいいかもしれません。ゆとりや遊びが無くなっているのは事実でしょうが、「これが、自分の生き方だ」とか、「この仕事に自分の希望を賭けるんだ」と言い切れず、(私も他人事ではありませんが)いつもどこかに逃げ口を設けながら、今日をやり過ごすような生き方。
もし、先生たちが本気なら、お上の指示を待ってそれをこなすようなやり方はしないでしょう。自分のクラスのまとまりが無いと思ったら、教室でグチグチ時間稼ぎの説教を垂れるのでなく、教育再生会議の結果を待つまでもなく「30人31脚」でも「連続大縄跳び」でも、すぐに子どもたちと校庭でも体育館でも出て行ってやったらよいではありませんか。これは、会社の中でいつまでもグチグチ会議をしながら上からの指示を待つ態度だって同じです。たぶん、今の大人の毎日には、「それをやったからって、明日が変わるわけじゃないよ」というホープレスな諦観気分が蔓延し、その上での損得勘定から逃れがたい状況がありそうです。こんな大人の生き方に接していたら、子どもたちもたまったものではありません。しかし、すぐにそんな生き方が子どもたちにも染みついてしまいます。
こうなると、もはや思い切って「寺子屋」ルネッサンスこそ教育再生の王道ではないでしょうか。もっと自律した師と、自律した生徒の間の、自由でおもしろい、真剣勝負の学びの場づくりです。センター・コントロールによる教育では、本質的な改善への埒(らち)が明かないでしょう。到達レベルさえ共有できれば、学校の個性がもっとあっていいのではないでしょうか。さらには、一つの学校の中に、いくつもの寺子屋が生まれたっていいですね。江戸の寺子屋は、本気で子どもの相手をしようと思い立った町の大人達がボランティアで開かれ、世界的な読み書きそろばんの教育レベルを達成していのですから。
「あしたは、もっとおもしろい」これは、1990年にオムロンが唱えたスローガンだそうです。ただ待っているだけの明日のおもしろさではなく、何かおもしろい明日を創っていこうよという呼びかけです。私は、この言葉が大好きです。そんなホープフルな気分が世の中にあふれていたら、大人も子どももハッピーですよね。そんな場にこそ、未来につながる学びの場が生まれるのではないかと思います。そう言えば、これまで「てら子屋」にお招きしてきた大人の方々は、みなさん、あしたをおもしろく生きようと、いつも何かたくらんでいるような人ばかりでしたよ。寺子屋ルネッサンス、どうでしょう?