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てら子屋コラム

今夏のてら子屋をふりかえって【その1】
~学校でもなく、イベントでもなく、やはり「てら子屋」~
中間 真一

18.jpg 真夏日年間最多記録の更新も、そろそろ落ち着くのだろうか。空の高さと風の心地からは秋が感じられる。そろそろ今夏の「てら子屋」をふり返ってみよう。今年も森のてら子屋は、東村の林業家小森谷さんのシャロムの森で4泊5日、理のてら子屋は「DNAってナニモノ?」をテーマに、生命科学関連の学生たちと共に2日間のサイエンスワークショップを実施した。延べ50名ほどの子どもたちは、非日常の山奥のマクロな自然の中で、さまざまな生きものと不思議、驚きに出会った。そして、日常生活の場に戻ってDNAという存在を知り、生きものに共通するミクロの世界を、何かしら感じていたようだった。

 森のてら子屋の舞台となるのは、奥まった杉林の多い沢沿いの林道脇の木こり小屋。初めての参加者が山のキャンプに期待するカブトムシやクワガタは、ほとんど見つからない。「雨じゃ遊べない」、「ぜんぜん虫がいない」、「カブトとかクワ、いないの」と、声を上げる子も最初のうちはいる。が、はるばる沖縄から飛んできてもらったゲストのゲッチョ先生(盛口満さん)の、でっかいリュックから次々に繰り出される「?」と「!」の生きもの教室に夢中になっていってしまう。今回は、東南アジアからこの日のために取り寄せたという、サソリの缶詰やイモムシを揚げたスナックなどをみんなで食べながら、ゲッチョ・コレクションの一端にふれ、森の中をキョロキョロしながら共に歩く。現物の迫力とゲッチョ・パワーがあいまって、彼らの旺盛な好奇心は点火されると同時に発火してしまった。

 すでに、この場所での参加が3回目になる子は、この森ならではの楽しみを見つけている。そのひとつが「冬虫夏草」だ。2年前、やはりゲッチョ先生から教えてもらって発見した、岩肌の冬虫夏草以来、彼らの知識は図鑑や書物等により、さらに蓄積され、新種の冬虫夏草発見に向けて眼は真剣そのものだ。今夏は、採集した冬虫夏草をスープに入れて、みんなでおいしくいただいた。また、崩れた崖の瓦礫の中から水晶を見つける眼も鋭い。それを見ているビギナー参加者も、最初はじっと彼らの楽しそうな様子をうかがいつつ、もじもじそわそわあたりを見回しながら、自らも探し動き出す。すると、意外なところで新たな種が見つかったりする。私が、いくら本を読んでも難解だった、学習における正統的周辺参加の実際を目の当たりにできる。現場はおもしろい。

 ひるがえって、この子たちの日常の学校生活はどうなのだろう。好奇心に点火する大人の存在、発火して燃える取り組みの体験は、毎日の授業からは得にくいようだ。ある人から、「毎日毎時間を、子どもたちの好奇心を喚起できるような授業にするのは無理だ。学校では、すべての子どもたちに身につけてもらうべき知識を、きちんとマスターできるようにしなくてはならない。一発もののサーカス・イベントと較べられるのは迷惑だ」と指摘を受けたことがある。私は、確かにそのとおりだと納得した。それでは、てら子屋という学びの場は、連続的な学びの日常としての学校でなく、非日常のトリッキーで瞬間芸的な学びの場なのか。少なくとも、私は「違う」と断言する覚悟で毎回のてら子屋を企画している。

 子どもたちの学習の全体は、「やりたいこと」と「やらねばならないこと」に分けられるだろう。圧倒的に後者が多い。しかし、すべてが「やりたいこと」になる必要は無い。「やりたいこと」を見つけるチャンスを、よりていねいに、より数多く提供する必要がある。一発ものの科学イベントでは、確かに瞬間芸的側面に力点が置かれ、学ぶ気持ちへの導火線が心許ない。一方、学校という連続する毎日の中に、そんなカスタマイズされた学習は現実性に乏しい。だから、その中間にある「てら子屋」という学びの場に価値があるのではなかろうか。てら子屋は、年に何回かしかない。しかし、毎年毎年参加を繰り返し、それぞれの関心にプロが応える。てら子屋は、公的な制度でもなく、人寄せのイベントでもない。やはり、子どもの未来を重いながらの実験現場なのだ。


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