自由に遊んでほしい。でも、危険から守りたい。
大人が子どもの遊びをみつめるまなざしは、その間で揺れている。てら子屋にスタッフとして参加するときも、いつも考えさせられるテーマだ。遊びの魅力や意味を削ぐことなく、事故を避けるために、大人は子どもの遊びにどう関わればいいのだろうか。・・・そんなことを考えている中で出会ったのが、「危険」を「リスク」と「ハザード」に分けてとらえるという考え方だ。
たとえば、子どもが木登りをするとき。
木の幹には滑りやすい部分もある。枝から足を踏みはずすかもしれない。「危険」を見極め、自分の力で乗り越えられるものなのかどうかを判断し、チャレンジしていくのが、木登りの醍醐味でもある。この「危険」は、「リスク」と呼ばれる。一方、子どもが自分で予測し、対処することが難しい「危険」は「ハザード」と呼ばれる。木登りに使ったハシゴのメンテナンスが行き届いておらず、ネジがはずれて落下した、などという場合などがこれにあたる。
子どもが予測し、対処することのできない「ハザード」は、できるかぎり排除する必要がある。しかし、「ハザード」を恐れるあまり、「リスク」も全て取り除こうとすれば、安全性は高まるかもしれないが、遊びの魅力が失われてしまう。遊びを通して、子どもたちが自分の身を守ることを学ぶ機会も奪うことになる。「ハザード」をうまく排除し、「リスク」の価値を大切にするための工夫が必要なのだ。
昨年8月、てら子屋のフィールドプログラムで化石堀りをした。化石をみつけたときに取り出すためのハンマーを手に、崖を、沢を登りながら、化石を求めて歩く。出発前に先生からまず教わったことは、先の尖ったハンマーの先端を、手のひらで包み込むようにして歩くということ。そして、崖の上に登ってハンマーを振るうときは、必ず下の人に声をかけること。それぞれが自由にチャレンジするために、最低限共有しなければならないルールだ。なぜそうする必要があるのかを理解していた子どもたちは、そのルールをよく守った。
そして、化石探しが始まると、登れる子は上へ上へと崖を登っていき、登れない子は手の届く高さで、黙々と化石を掘り始める。「我も我も」と、無理によじ登ろうとすることはない。「自分の力でどこまで登れるか」を、それぞれがきちんと判断できていたのだ。
「自由に遊んでほしい。でも、危険から守りたい」というとき、大人に求められることは、まず「ここでの危険は何か?それは『リスク』なのか、『ハザード』なのか?」を冷静に分析すること、そして、子どもが自ら対処できる部分を尊重することではないだろうか。
参考: もっと自由な遊び場を (1998) 遊びの価値と安全を考える会 大月書店