卒業に必要な単位が不足する、「履修不足」が大きな問題になっている。受験対策を優先させ、受験に不要な科目をおざなりにしてきたことがその大きな原因だ。文部科学省の調査によれば、全国の公立高校4045校(約81万3000人)のうち289校(4万7000人)で「履修不足」が明らかになっている(※1)。連日のニュースを聞いていて気になるのは、この問題が語られる際に「損」や「ずる」という言葉が不用意に使われていることだ。
「(受験に不要な科目を)履修した正直者に損をさせるわけにはいかない」「ずるをした高校」という言葉が、あたりまえのように使われている。教育に携わる人々がこの言葉を使うたびに、私は悲しい気持ちになる。何をどう学ぶかという問題に、そもそも「損」「得」という言葉はそぐわないと思うが、あえて「損」という言葉を使ったとして、今回の問題で本当に「損」をしたのは、本来高校で学ぶべきだったこと、学べたはずのことを学ぶ機会を与えられなかった、4万7000人の生徒たちの方ではなかったのか。
「家庭基礎」の時間を「物理」に充ててきたことで履修不足が問題となったある私立高校では、単位取得のための補習として、教材ビデオによる自習が予定されているという。生徒の一人は、「どうせやるのなら自習でなく、ちゃんと実習をしたかった」と語っている(※2)。彼らは、受験に不要だからという理由で削られた学びを、卒業までに残されたわずかな時間で取り戻すことができるのだろうか。
「学校は僕らの受験のためにやってくれたことで仕方がなかったとも思う」と、履修不足の問題が明らかになった学校への「同情」を語る生徒がいる(※3)。「生徒のためを思ってやったことだ」と語る教師がいる。しかしここでの「僕らのため」「生徒のため」という言葉は、「受験対策」という狭い視野の中で発せられたものにすぎない。卒業後、受験の後を見越した長期的な視野で「生徒のため」を考えていたなら、今回のような問題は起こらなかったはずだ。
もちろん、この問題は高校だけ、教師だけの問題ではない。「名の知れた大学を目指すなら、いまの文科省のカリキュラムでは不可能。補習で教科書を進めたり、早めに教科書を終わらせて受験対策に専念したり、すれすれのところでやっている。そうした矛盾が今回噴き出した」という高校教師の言葉の通り(※4)、無理を重ねるうちに生じたひずみが表面化したのが今回の問題と言える。
だからこそ、今問われているのは、学校が、社会がこの問題をどうとらえ、どう議論し、どう対処するかということではないかと思う。「不足した授業時間数をどう補うか」「既に単位を取得した生徒との公平性をどう保つか」といった表面的な対処ではなく、「欠いてしまった学びの機会をどう補うか」という視点から対策を講じたい。
「受験に必要ないから」という理由で履修科目から削った上に、卒業までのわずかな時間で「こなす」ような補習を行えば、その科目への生徒の関心は削がれ、その後の人生における学びの芽まで摘み取ってしまう。学校で残された時間が足りないのならば、補習の「時間数」にこだわるよりも、卒業後も関心を持ち続け、学び続けられる「きっかけ」を与えるような授業をすべきではないか。
その上で、今回の経験をもとに、「学校で何を学ぶべきで、現実的にどこまで可能なのか」を突き詰めて議論し、既に生じてしまったひずみを正していく必要がある。「高校は何をするところなのか」。現在高校に在学している高校生、これから高校を目指す中学生が、この議論と、社会の向かう方向を見守っている。
(参考) asahi.com:朝日新聞 ニュース特集 「履修不足」
※1) 履修漏れ、公立は289校 文科相「結果責任、私にも」
※2) 今から家庭科70時間、嘆く生徒
※3) 「補習出ない」「学校ふざけるな」 履修漏れ、受験生ら
※4) 広がる履修漏れ 教員、校長の本音は