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【ゲッチョ先生コラム】だまされる力
盛口 満

 

 教員稼業で必要な資質とはなんだろうか。

 教員にも......、いや、教員にこそ多様性が必要だから、これは一つに限らない。ただ、もし、「教員に必要な資質をひとつあげるとしたら、あなたはそれに何と答えるか」と問われたとしたら。それに対して僕は、「教員に必要なのは、だまされる力だ」と答えたいと思う。

 

 僕がかつて勤務していた私立高校は、生徒の自主自立を重んじていた。規則で生徒を縛るのを良しとしなかった。僕が勤務していた15年の間でも、生徒たちや学校全体の気風にも違いがあったけれど、例えばHRで「授業をさぼる権利はあるか」という議題で、大議論となったことがあったことを思い出す。こんな議論がまきおこるぐらいだったから、卒業時に出席状況や成績状況が芳しくなく、卒業審査にひっかかる生徒もでてきた。むろん教員にとっては、そうした時こそ、生徒と真剣なやりとりができる好機である。

 ある女子生徒がいた。中学時代はそこそこ学力が高くあったようだが、高校入学後は勉学に集中できなくなった生徒だった。中学時代に、親から勉強を強制されたという思いが高校進学後の怠学の理由の一つであったようだ。進級時にも何度か修学態度の改善について話し合い、それを裏切られということが重なり、卒業が間近になっての卒業課題もなかなか予定通り進まないのを見て、ある日、彼女に対して、「このままだと......」と説教を始めてしまった。教員は正義を背負うと、かさにかかる。つい、彼女に対して一方的に要求を突き付ける形で話を進めていたのだと思う。

 「それは違う」

 僕の説教を一方的に聞いていた彼女が突然、猛反撃を始めたので息をのんだ。自分は課題をさぼっているわけではない。出された課題が自分には適していない。どうやっていいかわからない課題を一方的に出されても対処のしようがないではないか。細かなやり取りは覚えていないが、彼女はそのように主張をした。晩秋の頃であった。すでに日暮れた正面玄関前のロータリーでのやり取りだったと覚えている。 

「どんな課題だったら取り組めるのか」

ここにおいて、初めて僕らは共通の地平に立った。それからしばらく、彼女と課題をめぐっての具体的なやりとりがつづいた。二人で納得しあって設定した課題に対しては、彼女は真剣に取り組んだ。最終的に課題ができあがったとき。彼女は僕の前で泣き、僕もそれを見て、胸がいっぱいになった。

こうした経験がありつつ、僕は次の受け持ちの学年の生徒と、やはり同じようなやりとりをしてしまった(今度は男子学生だったが)。生徒一人一人の抱えている具体的な問題や状況が異なっているので、繰り返し、教員は見誤るのだ。しかし、大切なのは、教員が見誤ったときに生徒が「それは違う」という指摘できるという関係性があることと、生徒に誤りを指摘されたときに教員の側にそれを受け止める受容性があるということだろう。

では、そのような関係性はどのようにして生じるのだろうか。それは、ちょっと変な話だと思われるかもしれないが、生徒を繰り返し「見誤った」結果の積み重ねによって生じるのではないだろうか。

例えば卒業審査に引っかかった生徒は、それまでも何度も教員である僕と、本人の状況改善についてやりとりをしていた。出席状況が悪いとからなんとかしようとか、今年は単位を落としたから来年はそうならないようにしようとか。それに対して、生徒は「今度からはこうします」といった反省と改善の弁を述べる。しかし、それは一時しのぎの言い逃れとなってしまうことがある。ところが、それが言い逃れだった場合でも、僕は結構、信じてしまうタイプだ。結果、裏切られる。問題は解決していないから、しばらくすると、同様のやり取りをせざるを得なくなる。また言い逃れをされる。今度こそはと信じる。そして裏切られる。

生徒からしたら、言い逃れにまんまと載せられてしまうような教員など取るに足らない存在と言える。が、同時にまた、自分の言うことは信じてもらえる教員だとも思うようになるのではないか。教員が生徒にだまされることには、こうした二面性が含まれる(むろんこんな考えは後付けである)。こうした「積み重ね」の結果、教員の説教に対して、「あなたの指摘はずれている。自分が抱えている問題はここにある」という発言が、はじめて生まれてくるように思う。この発言があって、はじめて教員と生徒は同地平に立つことができる。

ある生徒の成長の中、繰り返し教員がだまされる。ある生徒でだまされたのに、こりずに別の生徒にだまされる。

教育とは、いい意味での繰り返しが必要とされる。教員は担当の生徒を卒業させ、新たな担当の生徒に繰り返し出会う。けれど当たり前のことであるが、生徒にとって、自分自身はかけがえのない個としてある。さらに、その個人にとっては、高校1年も2年も3年も、ただ一度きりの体験でしかない。そのただ一度きりにきちんとつきあうには、教員の側に繰り返しだまされる力が必要だ。何度もだまされるというのは、じつは目の前の生徒とのやりとりは、決して繰り返しのことではなく、ただ一度のことであることを、どこかで理解しているからだ。僕がただ単に忘れっぽいという指摘は、受け入れるけれども。

それでも、はなから信じていないこともある。教育は多様な個々の成長に付き合う過程としてある。だから教育を画一化しようとする言動にはだまされない。


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