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【ゲッチョ先生コラム】呼び名を与えてくれる者
盛口 満

 僕の名前は満という。むろん、親がつけた名前だ。姉が円だから、二人合わせて円満......というのに子ども時代に気が付いたときは、なんと安易な命名かと、がっくりきた(もう一人生まれたらどうするつもりだったのだ?)。僕にはもう一つ、なじみの名がある。それが"ゲッチョ"という名だ。つまりはあだ名である。このあだ名は、もともと大学時代、国文科にいた同じサークルの友人が、僕の生まれ故郷に方言調査に出かけたことに端を発する。友人は、僕の地元の老人に、生き物を描いたカードを見せて、方言を収集するという実習に参加していた。そのとき調査対象となったある老人がね......と彼女は実習後に僕らのサークルで報告をしたのだ。「そのおじいさん、カマキリの絵を見せたら"カマゲッチョだっぺ"と言ったんだけど、今度、トカゲの絵を見せても"カマゲッチョだっぺ"なんて言ったんだよ」と。さらに、そのおじいさん、彼女に指摘されて初めて、カマキリとトカゲを同一の名で呼んでいることに気付いたというおまけまでついた。そこで、そんな変わった方言を話しているところ出身というだけで、以後、僕はサークル内でカマゲッチョと呼ばれることになってしまった。本名に限らず、あだ名もまた、"誰か"が自分に与えてくれる構造は変わらない。

 卒業後、僕は「生徒の自主自立を重んじる」新設の私立学校に就職する。その最初の職員会議(まだ校舎ができあがっていなかったので会議場は温泉宿だった)の議題が一風変わっていた。「生徒に教員を先生と呼ばせないようにしよう」......こんな話をしていたのだ。

「生徒たちには、教員を○○さんや、あだ名でよばせたい」と。権威主義に基づかない学校づくりには、いたく感心した。しかし、生徒に勝手にあだ名をつけさせると、ろくなことにはならなそうだ。そこで先手をきって、「僕は大学時代、カマゲッチョと呼ばれていました」と、最初に担当をしたクラスで自己紹介をすることにした。しかし、呼称というのは、あくまで本人よりも他者が口に出して呼ぶものなのだ。カマゲッチョと言うあだ名は、ちょっと長い。そこでいつのまにか、ゲッチョという短縮形になってしまったわけである。もっとも、一時、生徒の中ではさらに短縮形にして"ゲ"とか"ゲっちゃん"と僕のことを呼ぶものもいた。ここまで短縮された形が主流とならなくて良かったと思う。

 そんな学校に勤め出した時から、早、三十年が経つ。

 「ゲッチョって、呼び捨てしているんですか?」

 そんなふうに驚かれた。

 僕が最初の頃に教えた生徒が、自然体験施設の管理人になった。その彼が、自然についての講演会と観察会を企画してくれるので、彼のいる、九州の山際に建つ施設に飛ぶ。無事、イベントが終わり、夜の交流会になったとき、サポートをしてくれていた現地の人たちが、彼が僕のことを、ことあるごとに「ゲッチョ」というので驚いたというわけだ。もっとも僕らとしては、その名で呼ぶことも呼ばれることも、全く違和感がないし、ほかの名では呼びようも呼ばれようもないのだけれども。

 僕を施設に招いてくれたTは、腕っぷしが強い生徒だった。いや、きわめて強い生徒だった。実は今回、初めてTが僕の学校に入学した経緯を聞くことができたのだが、それこそ、小学校1年生から喧嘩と縁が切れず、その年から「命がけ」の生活をしていたのだと聞いて絶句してしまった。Tが僕の勤めていた学校に入学しようと思ったのは、そんな自分を変えたいと強く思ったからだった。しかし、彼の気配を、ほかの腕っぷしの強い生徒たちは敏感に感じとり、放ってはおかなかった......。Tは高校入学後も、喧嘩と無縁の学校生活を送るわけには、すんなりとはいかなかったのである。

 「うん。Tさんがそんな学生生活を送っていたのは知っていますよ。最初にあったときから、なんとなく、そうした気配を感じました。でもね、そんなTさんが当時の学校の先生を招くっていうでしょう。だからどんな先生が来るのかと思っていたんですよ」

 交流会の時、地元の人にそんなふうに言われた。

 Tと僕が話をするようになったのは、彼が高校2年になったときからだ。僕のクラスにも、いわゆるヤンキーと呼ばれる生徒たちがいて、その生徒たちへの対応には、日々、振り回されるばかりだった。そんな中で、ヤンキーになりたいわけではないながら、ヤンキーと呼ばれる生徒たちからも一目も二目もおかれるTと仲良くなったのは、彼とはなぜかうまがあったからだ。第一、Tもまた自然好きだった。Tとは西表島への修学旅行を企画したし、Tと二人で東北へカモシカ調査の合宿に参加したりもした。将来の夢についてもよく語り合った。その頃、僕自身、自分の将来について、まだはっきりとした展望をもてていたわけではなかったからだ。以来、卒業後も、ときに連絡が切れることはあっても、どこかで繋がり続けていた。

 「僕は小中高しか行っていません。が、そこで、一生つきあいたいという恩師に出会いました」

 Tが交流会の中で、僕のことを、そう紹介してくれる。

 泣きそうになった。

 本名もあだ名も、好むと好まざるとに関わらず、誰かが僕に与えてくれるものとしてある。そしてまた、恩師というその呼称も、誰かが発してくれて、初めて存在しうるものとなる。人は、いつか、誰かが与えてくれるものと出会うために、日々、何事かに取り組んでいくものかもしれない。


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