こどもの日と言えば柏餅。和菓子好きの私は、この時期になると、行く先々で美味しそうな柏餅を探してしまう。「節句」という、季節や成長の節目を暮らしの中につくった先達に、心から感謝してしまう。
さて、こどもの日で毎年話題となるのは、進む一方の日本の少子化問題。どう考えても、現状の延長線上には子どもが増える見通しはたたない。フランスのように、何が何でも子どもを増やそうとするやり方もあろう。しかし、全体の人口が減って、自然な定常化を長い時間をかけて待つという選択肢もある。今回のコラムでは、少子化対策として子どもを増やすことを考えるのでなく、少ない子どもが、幸せに成長することを考えてみたい。
そんなことを考える契機となったのは、ちょうど今、東京の六本木、森アーツセンターギャラリーで開かれている展覧会「こども展」に足を運んだことだった。この「こども展」は,2009年から2010年、パリ・オランジュリー美術館で大人気を博した展覧会"Les enfants modeles(モデルとなった子どもたち)"を、日本向けに再構成し、ピカソやモネ、ルノワールやドニなど著名な画家たちが、親として自分の子どもを描いた作品を中心に約90点の子どもの肖像画が展示されているものだ。子どもの肖像画だけが並んだ会場は、普段の展覧会とは違う、ゆっくりゆるい空気に満たされていた。
ここで、「子ども」から連想される四字熟語を挙げてみよう。「純真無垢」、「天衣無縫」、「天真爛漫」などが、すぐに頭に浮かぶだろう。これらは、すべて肯定的な意味であるし、これらの意味に共通しているのは、「自然のまま」、「思うまま」であり、「世の中をうまく渡る知恵」も「その人ならではの個性」も無い状態であろう。「社会」の影響を受けない、「自然」のままであることに価値があるという見方だ。
そして、子どもたちは生まれた直後から、ものすごい勢いで「学び」始める。成長である。学び始めると、周囲の大人は「無垢」であることよりも、「知恵」や「知識」が「ある」ことに対して肯定的にみるようになる。「しゃべる」、「字を読み書きする」、などのように。まさに、評価される価値の大逆転が起こるわけだ。だから、ほめられたい子どもは、ますます「ない」ことよりも、「ある」ことに興味を持ち、ぐんぐん成長を果たす。
このあたりについて、教育思想家のルソーは、代表作『エミール』の冒頭でこんなことを言っている。「万物をつくる者の手をはなれる時は、すべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」と。万物をつくる者の手をはなれる時、それはすなわち誕生の瞬間だ。その瞬間から、悪くなるというわけだ。穢(けが)れていくということだ。これは、本当だろうか?
これを「そのとおり!」と言ってしまうと、私たちの毎日の暮らし、努力、成長というものの価値を認めないことになってしまう。もっと言うと、「人間らしさ」を否定するような気もする。脳が著しく発達した「人間」という生き物だからこそ、私たちは好奇心を無限に増殖させることができる。得た知識から、新たな知を創造することもできる。それらと身体の発達を共にしてこそ「成長」なのだ。決して「穢れ」ではない。
しかし、そのような「生きる歓び」に結ぶつかない学びが、じわじわと人間の成長を蝕みつつあることに注意しなくてはならないのかもしれない。不自然な知の詰め込み、情報の詰め込みが、技術やサービスビジネスによって進められつつあるからだ。この人間の成長意欲と、それを容易に急速に可能にする技術やサービスのバランス、このあたりに少子社会の子どもの成長に一番大切な考えどころがあるように感じている。
ワーズワースの「虹」という詩の中に、"The Child is father of the Man"(子どもは大人の父)という一節がある。私がとても好きな詩であり、とても考えさせられる詩でもある。子どもの頃の無垢な心と、人間としての成長の両立を図るために。そのためには、この詩の最後の一節にある、「自然への畏敬の念」を、常に忘れてはならないのだろう。
"And I could wish my days to be bound each to each by natural piety."