「いいこと、ここではおなじ場所にとまっているだけでも、せいいっぱいかけてなくちゃならないんですよ。ほかへ行こうなんて思ったら、少なくとも二倍の速さでかけなくちゃだめ」
進化論にも「赤の女王仮説」として登場する、ご存知『鏡の国のアリス』の名セリフだ。私達が生きている世間も、日増しに「鏡の国」化していくような気がしてならない。ムダな道草を喰っている間に、自分の生き場所が無くなっているのではないかという不安だ。
しかし、ムダはまったく価値を生まないのか? ムリすることは本当に悪いことばかりか? ムラ無く人間やれることがあるのだろうか? 頭のいい人は、「程度問題でしょう」で片づけられる。しかし、心配性でナマケモノの私は、ムリ、ムダ、ムラを削り続け、いつの間にか身や骨、心を削っていないかと心配になってしまう。
最速の改革を実現させ、企業価値を最大化する。やるべきことは決めてある。だから、目の前に出された課題や問題を最高効率で実現する。これは、グローバル市場競争下で勝ち残れる企業経営の揺るがぬ王道だ。しかし今、このやり方が、企業経営以外の、市場競争原理だけでは円滑に機能しないような、福祉や教育等ケアサービスの場にも持ち込まれ始めている。創造力のある子ども、生きる力を持った子ども、こういう子どもたちが育つのを支えるエデュケア、幸せな老後生活を支えるケアに、果たして最高効率、最速改革の方法論があるのだろうか。巷では、脳科学の応用など、教育における科学的方法論が喧しい。しかし、騒ぎをよそに、脳科学者の第一線にいる人々は、より多くの体験や経験を積んで情報の蓄積をしておくことこそ、最も大切な出発点だと冷静に語っているように思える。「Aha!体験の獲得」や「前頭連合野の発達」も、そこに原点があるようだ。
さて、延べ6日間に及んだ今夏の「てら子屋」も、子どもたちの姿から、多くを学ぶことができた。アンモナイトの化石を楽しみに、急な崖をより高く登っていく子どもたち。炎天下の化石掘りでクタクタに疲れた晩、天体観望を終えた夜十時過ぎから、ごそごそクリーニング室に集まってきて自分の掘り出した化石に夢中になる子どもたち。朝は四時半起きで玄関ドアをすり抜け、ミヤマクワガタ探しを始める子どもたち。化石掘りよりも、川で泳ぎ始める子どもたち。科博では、丸一日ぎっしりの少し難しい話しにも食らいついてきた子どもたち。こんな、ムリ、ムダ、ムラだらけのてら子屋の毎日は、学校や塾、家庭ではあり得ないことだったろう。しかし、これらは、子どもたちに悪い影響を与えたのだろうか。少なくとも、子どもたちの言葉や作文、保護者の方々からの声からは、ますます好奇心と学ぼうとする気持ちを膨らました子どもたちの様子だった。北海道中川町エコミュージアムセンターの指導者は、嵐のような「てら子屋」の連中が去った後の感想として、次のように語ってくれた。
「とにかく元気のいい子どもたちだったけれど、「頭の切り替えが早い」ということと、スタッフからの「限度を超えているよ」の一言で,子どもたちがフェーズを切り替えることができるということは、私にとってすごいことでした。これは、学校現場で最も求められていることですが、実は最もできていないことかもしれません」
当初、現地スタッフの皆さんは、学校行事でやってくるのとは違う、東京からやってきた、やたら元気のいい子どもたちと不思議なスタッフの一行の様子を、少し距離を持って眺めていたのだろう。そして、最後には「てら子屋」という活動の本質を感じ取ってくれていたのだ。こんなに嬉しいことはない。
やはり、たまには大人の縛りから子どもを解いてあげよう。そこには、自ずとムリ、ムダ、ムラだらけの時間と空間が生まれるはずだ。そして、その中で子どもたちは学び、遊び、育ち、脳内に生きるための貴重な情報を貯えていくだろう。大人が子どもたちのためにできることは、ギリギリのところで、子どもたちのムリ、ムダ、ムラを見守り、ムリ、ムダ、ムラだらけのやりとりにマジメに付き合うことではなかろうか。そのためにも、世間の中のムリ、ムダ、ムラは、いい塩梅で残しておかなくては。