学びの方法は本を読むことだけとは限らない。しかし、読書は学びの最有力手段の一つであることに違いない。そして今、そのための「書籍」の姿が、ガラガラ変わり始めている。「電子書籍化」の波は、楽天などの新規参入もあり、にわかに日本でも波頭を顕し始めた。このまま、「紙の本」は駆逐され、読書と言えば「電子の本」が当たり前の時代になるのだろうか?そうあって欲しくないと思うのは、「紙の本」育ちの自分の単なる懐古主義なのか?
2007年に電子ブックリーダーKindleを発売した電子書籍ビジネスの先駆Amazonでは、アメリカでの書籍販売数において、昨年初めに「電子の本」はハードカバーだけでなくペーパーバックをも上回ったそうだ。日本の通勤や出張の電車内での観察感覚からすると、そこまで普及していないと思う。しかし、週刊誌、マンガ、文庫本など「紙の本」を電車の中で読んでいる人は明らかに減った。その一方、スマホで動画番組やゲーム、SNSを楽しむ人はかなり増えてきた。
チクチクと眼に刺さってくるような「透過光」による活字認識はやさしくないし、メディア論の大御所マクルーハンもメディア論の中で、適度な心理的距離をとって想像や考えを巡らせる「読み方」には透過光よりも反射光だみたいなことを言っていたはずだと、「やっぱり読むっていうのは反射光のやさしさと距離感がなくちゃね」と思っていたら、すぐにSONYやKindleがE Inkという反射光方式を実現してしまった。技術は進化して押し寄せてくる。
少し前だが、新聞紙上で『脳を育てる「紙の本」』という見出しの記事を見つけた。HRIの研究会でもお世話になったことのある、言語脳科学の第一人者である酒井邦嘉さんのインタビュー記事だった。研究会でも、チョムスキーの生成文法の理論を発展させ、極めてサイエンティフィックな説得力のある発言が印象的だった。だから、ノスタルジックな「紙の本」礼賛論とは違うはずだと確信し、記事と共に『脳を創る読書』という著書も読んでみた。
酒井教授の主張の展開は大筋、次のような感じだった。
①音声や映像など他の情報に較べて「活字」は情報量が圧倒的に少ない。だから、不足を補うために人間はより多くの「想像力」発揮を必要とする。このことは、「考える人」ならではの複雑さを好む脳の力を育て、創るのに大きな価値がある。「読書」はそのための有力な手段である
②読書の価値を確認した上で、なぜ「電子」でなく「紙」なのか。強調されていたのは「量的な手がかりの希薄化」であった。「紙の本」の厚みが与えるページの量的な感覚が、読者の「読むリズム感」や「記憶の定着」に大きく影響する。私自身、非常に体験的に納得できた。利便性や効率化を優先した結果、失っている部分の大きさにも目を向けなくてはならない。「紙の本」と「電子の本」は共存し続けることが望ましい。
③「紙の本」と「電子の本」の使い分けについては、脳の最高次のプロセスによって生まれる「わかる」という感覚にも関係する。「情報を得る」≠「わかる」であり、「知っている」≠「説明できる」ということも含め、「情報を効率的に多量に得て知っていることを増やす」には「電子の本」の特徴を最大限活用できるだろうが、「わかる」や「説明できる」という部分には当てはまらないところがある。だから、上手な使い分けが必要だ。
「機械にできることは機械にまかせ、人間はより創造的な活動を楽しむべきである」というのがオムロンの企業哲学だ。「紙の本」と「電子の本」の話題は、まさに「機械に何をまかせ、人間はどこで人間らしさを発揮するか」の現在そして近未来への問題提起だと感じる。こんなことを考えることこそ、ヒューマンルネッサンス研究所のレゾンデートルなのかもしれない。