先日HRIの冊子制作でお世話になった、雑誌の編集者、ライター、カメラマンの方々と食事をする機会があった。かつて雑誌と音楽が好きだという理由で音楽誌の編集の仕事に憧れていた私にとっては、業界内部のあれこれを伺える楽しいひとときだった。しかし改めて考えるのは、好きだということと、それを仕事にするということの微妙な関係についてである。
小学生に将来なりたいものを尋ねると、いまでもサッカーや野球選手、食べ物屋、歌手、といった答えが返ってくるようだ(たとえば第一生命2011年調査)。好きなことを仕事にできたらたのしいだろうなあ、というイノセントな願いが伝わる。
ただ大人になって、自分が好きなことをそのまま仕事にしている人というのはそう多くはない。たいていの人は職業選びとなると、自分が好きなことと、自分ができることや生計を立てるということとは、別にして考えるようになる。
好きを仕事にするのに必要なのは「才能・運・継続」の三つであると、大槻ケンヂは近著で書いている(『サブカルで食っていくには-就職せず好きなことだけやって生きていく方法-』)。才能は、天性のものだったり、実際やってみて結果を出してみないとわからない部分もある。運というのもこれまた如何ともし難い要素である。継続は唯一誰にでもできるが、それだけでは仕事にはならない。
オーケン氏はこの三つが揃っていたので、音楽や作家、評論やタレント活動といった好きなことで生計を立てることに成功している。しかし好きを仕事にしているからこその苦労もあるようで、自分の表現したいことと相手方のニーズとのぶつかり合いや駆け引き、気が進まない仕事も「人生社会科見学主義」という哲学のもとに引き受けるといった、仕事人としてサブカル人であり続けるための心構えを説いている。
好きなことを仕事にするということの微妙さはまさにこのあたりにある。好きを仕事にできる人というのは、自分がやりたいことに、多少の妥協や不本意が混ざってもなお、成果に自分なりの充実や満足を見出せるような、懐が深い「好き」を持った人なのだと思う。
かたや、私の周りには社会人バンドや演劇といった活動をしている人が結構いる。アマチュアの域を脱しないレベルが殆どだが、中にはYouTubeで高評価を得ていたりするようなプロに近いレベルの人もいたりする。そんな彼らはしかし、好きなことを仕事にしたいなんて毛頭思ったこともない人たちなのかもしれない、とふと思う。自分が心底好きなことをやる上で、制約など受けたくないし、売れる売れないといったうたかたの物差しで測ってほしくないし、才能や運に恵まれないという理由だけで自分を見限りたくない。好きというのは本来的に、そういうかたくなな性質を持ったピュアな気持ちであるはずだ。
どちらの「好き」の貫きかたもそれぞれに人間らしくて良いなと思う。好きなことと仕事とを融和させその折衷に誇りを見出す人たちも、あるいは、好きと仕事のスペースの往来の中で自分らしさを育んでいる人たちも、いずれにしろ何か好きなことを持つことが人生をおもしろくする条件なのは間違いないようだ。願わくば、一生ものの「好き」に出会える場として、学校や家庭、社会があってほしいものである。