何を見ているの?
食事中に手を止めて上を見上げている子どもの目線を追うと、天井に、コップの水にできた水紋が映っている。
こんなところに、、、。いつもそこにあったはずの美しい光の環に、初めて気づかされた。
一歳を過ぎたばかりの子どもとの暮らしのなかには、そんなふうに、子どもの目線を追ってはっとさせられる瞬間がたくさんある。
以前、レイチェル・カーソンの著した「センス・オブ・ワンダー」を読み、将来子どもをもったら、なるべく自然に触れる機会をつくり、いろいろな経験ができるようにして、センス・オブ・ワンダー(神秘さや不思議さに目を見はる感性)を育みたい、と考えていた。
しかし実際に子どもとの暮らしが始まると、その考えは少し間違っていたような気がする。子どもは家の中のごく普通の暮らしの中で、日々神秘さや不思議さを発見しては感動している。そしてその姿を見ていると、私自身、とても神秘的な瞬間に立ち会っているようで、敬虔な気持ちになる。
センス・オブ・ワンダーとは「特別などこか」の「特別な何か」を見せて「育む」というものではなく、子ども自身が生まれながらにしてもっているものであり、それを教わるのは大人の私たちのほうなのかもしれない、と思うようになった。
一方、親としての私は、気がつけばその背中に「だめ」と声をかけてしまっている。
お風呂の水を飲んではだめ。
みかんの皮にはワックスがかかっているから、かじっちゃだめ。
そしてあとから、そんな自分にがっかりする。
先日は、子育てサークルのメンバー間で、来月予定されている「どんぐりひろい」を中止にするかどうかの議論があった。
衛生面への不安、農薬などの薬物への不安に加えて、今年は、放射能という新たな不安が加わった。また、「だめ」と言わなければいけないことが増えてしまった。
触ってはいけない、だめ、と制するうちに、子どもは触れることをあきらめ、自分の五感で確かめることをあきらめ、次第に、感じることをしなくなってしまう。生まれながらにしてもっていた、美しく鋭い感性が失われ、生きるだけ鈍感になっていく。
だめといわなければならないことはある。でも、大人の都合でだめといわなければならないことを、できるだけ減らしていくのが大人の責任だ。子どもたちがセンス・オブ・ワンダーを豊かに膨らませていける世界であるために。