ターミナルと言えば、やはり「駅」や「空港」を思い起こす。もともとの意味は「終点」だが、駅や空港でわかるとおり、同時に同じ場が「始点」にもなっているのがおもしろい。
終わりの達成感や空疎感、そして安堵感と共に、始まりへの期待感や高揚感、不安感もターミナルという時空間の結節点には同居している。そして、鉄道路線や情報回線が線から網状の面に展開進化していく中で、ターミナルは、トランジション(変遷・転移)の繋ぎ目の意味が大きくなった。同じように、私たちの人生にも「死」という終着点だけでなく、生き方の変遷の節目となる時空間として、いくつかの大きなターミナルの存在が見えてくる。
人生のターミナルを考えてみると、進学(卒業と入学)、就職(学び手と稼ぎ手)、成人(子どもと大人)、結婚(一人と二人)、出産(夫婦と親子)など社会的な制度と連動した、多くの人たちが同じように経ていく大きなターミナルと、極めて個人的な範囲で完結する小さいけれど強い自発ターミナルがある。
大きなターミナルは「式」と呼ばれる通過儀礼が伴うことも多い。社会の押し出しプログラムの力を借りて、次の人生ステージに向かう決心と行動を促す仕掛けだ。しかし、最近の成人式などの様子からは、かつて元服式に見られたようなプログラム趣旨とはかけ離れた、単なるエンタテイメントと化している。
この傾向は、「式」と名の付くイベント全般に見られるように感じる。世の中や個人の生き方の多様化やグローバル化、複雑化の中で、次第に「式」が「形」だけになり、形式化してしまったことが大きく影響していそうだ。
私自身は、その社会に固有のローカルな「式」の価値を尊重して、より活かしていくべきと考えている。しかし、それだけでない個々人自らの意志で設ける自発的なターミナルづくりが、これからの成熟社会には大切な営みとなるように感じる。自律した生き方とは、このようなターミナルづくりによって成り立つと考えるからだ。
ひとたび卒業したら学びは終わり、ひとたび就職したら仕事場は変えないなど、ひとたび選択したら、その後でのやり直しや付け足しは利かないという、誰もが同じ単線的一方通行人生を歩む時代とは異なっていくだろう。チャンスは自らつくるもの、いくらでも学び足しができるし、それによって新たな仕事に就ける、その循環によって生きる歓びを得られるというわけだ。
こんなことを久しぶりに思い起こしたきっかけは、夏休みに観た映画「おじいさんと草原の学校」だ。84歳で小学校に入学したマルゲ爺さん、数年前のケニアでの実話である。彼にとって自由を得るということは「学ぶこと」だった。「文字を読みたい」その強くて純粋な気持ちが、教師の心を動かし、子どもたちの心を動かし、教育委員会を動かし、政府を動かした上に、映画で世界中の人々の心を動かす原動力となったのだ。この映画を観て、私は「人生のターミナル」とは「学び」の時空間なのだと確信できた。それは、エンタテイメントなんかではない。学びこそが、人生のターミナルから未来への推進力になるのだ。
そしてもう一つ、まさにターミナルのエピソードもある。先日、出張の途中で旺盛な好奇心が騒ぎ、リニューアルして話題となっている大阪駅を暫し探訪してきた。ヨーロッパの鉄道ターミナルを思い起こさせるような、駅全体を天井高く覆う明るい大屋根、駅の南北をつなぐのは連絡橋というよりは、「時空の広場」という名のとおり広場である。その広場には金と銀の時計が据えられていた。私は暫しターミナルに集っては散っていく多くの人々の様子をショッピングビルの上の方から眺めていたが、そのシーンはまさに時空間そして人々の暮らしの結節点であった。本格的な学びから、小さな気づきのような学びまで、自発的なターミナルづくりによって学び続ける生き方を楽しみたいものだ。