二十数名の可愛らしい子どもたちが集まり、輪になって座った。先生が尋ねる「自由って、どういうこと?」一人の子が答える「自由って、一人でいられること、呼吸をして、優しくなれることだと思う」、「自由って、監獄から出ること」、次々に、私にとって驚きの言葉が繰り出される。ここは、フランスのとある幼稚園の教室だ。集まっているのは、4~5歳の普通の園児たちなのだ。
先日、マスコミ向けの試写会にて『ちいさな哲学者たち』という映画を観る機会を得た。フランスのある幼稚園で、園児向けの哲学の授業の様子を撮影したドキュメンタリー映画だと聞き、いろいろな意味で興味が湧いた。
お洒落なカフェで哲学談義をする「哲学カフェ」、大学入学資格試験の必修科目に「哲学」があるお国柄、ついに幼稚園児から「哲学」と来たかい?4歳の子どもには、もっと他に「子どもらしい」やるべき大事なことがあるんじゃないの?と、正直なところ、映画を観る前はシニカルな気持ちの方が上回っていた。しかし、好奇心旺盛研究所の研究員としては、チャンスを逃すわけにはいかないのだ。
そもそも、「こどものための哲学」という研究は、1960年代にコロンビア大学のマシュー・リップマン教授によってスタートしたものらしい。子どもが元々持っている「考える力」を、話し合いを通じてさらに高め、その後の認知力と学習力、さらに生きる知恵へとつなげていくことを狙いとするものらしい。
映画は、この発想を原点に、フランスの(日本で言えば教育実験校のような)幼稚園で2007年から始められた哲学のアトリエの時間を、2年間カメラで追ってき記録なのだ。
先生が園児たちに尋ねる「死ぬのは恐い?」子どもが答える「人が死ぬのは、楽しくないな」。「なぜ、楽しくない?」、「なぜって、一人になりたくないから。そうなったら迷子になっちゃうよ」、「魂ってなんだろう?」、「目に見えなくて、青いものだな」こんな、ごく一部の彼らのやりとりを抜き書きするだけでも、感じが伝わるのではなかろうか。およそ物知り顔の大人の常識からは想定できない、しかし、子どもたちの素直な心から発せられている「言葉」を感じることができるはずだ。
「哲学って何?」という問いに、子どもたちは「考えること」、「話しをすること」、「意見を聞くこと」と次々に答えていた。これって、社会の中で市民として生きる、人間生活の基本ではないか!半世紀を生きてきた私が、今まで、「哲学って何?」という問いに対して、「生き方を考えること」なんてうそぶいていたことは、見事に4~5歳の子どもたちの答えから跳ね返されてしまったわけだ。そう、哲学は考えるだけではなく、言葉を押し出し、言葉を受け取り、そういう他者とのやりとりという試行錯誤を経て、言葉を再生産していく営みなのだろう。
それにしても、私の中には不思議がいまだに残っている。「言葉」というのは、何らかの経験を通じて獲得され、使われるもののはず。それならば、人生経験豊かな人ほど、広く深い言葉の海の中から一つの言葉を選んですくい上げられるはずではないか。なぜ、生まれて4~5年足らず、まだまだ生きる経験の乏しい園児たちの口から、これほどまでに豊かに、純粋な、時に真実であるがゆえに残酷な言葉の数々が繰り出されるのだろうか?
解説をしている学者のコメントの中に、「知識は個人の頭の中にあるものではなく、対話する者たちの交流を通して社会的に構成されるものだということがはっきりと実感される」という記述を見つけた。そのとおりかもしれない。しかし、対話するためには、個人の頭の中の知識が必要になるはずだ。
この問題、まだまだ私は思考の途中だ。改めて、「子どもって何なの?」という問いに戻ってきてしまう。この映画に登場する子どもたちは、極めて優れた知能レベルだったり、特別な家庭環境であったりするわけではないようだ。園での遊び時間には、4~5歳の子どもたちらしい様子がうかがえる。しかし、一旦ロウソクに火が灯されて「哲学」が始まるや、彼らはちいさな哲学者たちになる。子どもとは何者だろう?そして、もしかすると、自律した市民による連帯の社会とは、このような哲学を積み重ねた人々によって成立する場なのかもしれない。幼稚園は、社会人へのスタートの場ということだ。映画の原題も、なんと”Just a Beginning”である。この頃、いいドキュメンタリー映画が目白押しだが、ガツンと一撃を求めて「考える人」になろうとしている方に、ぜひお薦めしたい一作だ。
※映画パンフレット画像の使用については、配給会社の許可をいただいて掲載しています。