桃の節句の三月です。男雛と女雛、そこに付き従う人形たち、華やかな段飾りからは、春の訪れ「節句」が感じられます。
ところで、男時(おどき)と女時(めどき)という言葉をご存知でしょうか。能役者の世阿弥が使い始めたようです。勝負にあたって、イケイケドンドンの勢いが自分にある時を男時、その逆に何をやってもうまく運ばず、無理せずジッとしていた方がよい時を女時と言っています。(最近の現実世界では、男女の使い方が明らかに逆ですが)漢語の「雌伏」と「雄飛」という言葉も同じように重なりますね。
世阿弥は、男時と女時は誰にでも交互に訪れる時の流れだから、それに逆らってもしょうがない、宿命として受け入れた方がよいと言っています。今の日本社会はどちらでしょう?やはり、「女時」でしょう。ならば、無理に成長に乗ろうとするばかりでなく、いかに暮らしと生き方の成熟を図って、次の社会へのイノベーションとソフトランディングを準備するかを忘れてはならないでしょう。それは、成熟期、踊り場、定常期と言われようとも、決して何もせずに退屈に過ごす時とは違うはずです。
私は、女時こそ文化創造の時、あの文化人類学者レヴィ・ストロースが取り上げた「プリコラージュ」(日常生活の中からの自分なりの試行錯誤と創意工夫の知恵)の時代だと思っています。これは、理論的にキッチリ構造を組み立てて計画的に組み上げる「エンジニアリング」の逆側の概念です。ですから、工業社会のパラダイムとは違います。効率性という尺度をあてると、とても低い営みです。しかし、創造性、人間性は高い営みのはずです。そこには、社会に根ざして自分の生活から文化を編み上げていくような生き方が必要ですし、特に「学び」が重要になるでしょう。
そこで、世の中の学習シーンを大胆に2つに分けてみます。一つは、資格取得やスコアアップ、仕事直結のハウツー獲得など、何かの実用的なモノサシの上で、もっと上を目指すための勉強です。もう一つは、自分なりの整理や納得、明日への心の蓄えを積み増したり、心の構えを深掘りしたりするための学びです。いかがでしょう。こんな切り口から女時の学びを考えてみます。
一つめの勉強の姿は、最近の通勤電車の中で見つけられます。若い人たちを中心に、通勤通学途上に資格試験対策や英語の勉強をしている人たちが少なくありません。大学入学と同時に、ビジネススキルや資格取得の予備校にも通い始めるのも珍しくないようです。目の前の問題に向かうための真面目な姿勢、世の中の停滞感の渦に巻き込まれないための勉強と言えるでしょう。
後者の学びについて、最近参加したセミナーの場などを思い起こしながら考えてみます。すると、居眠りオジサンビジネスマンの参加が少なく、若い人や老若問わず女性参加者の多いセミナーに見つけられるある特徴に気づきます。このような場は、一方的に即効性の高いハウツーを「受け取る」場ではありません。「ワークショップ」や「ダイアローグ」、双方向のコミュニケーションを通してより深く「考え合う」学びの場です。いや、学ぶだけというよりも、「遊ぶ」「学ぶ」「働く」が渾然一体となったような場です。こういう学びこそ、じつは「プリコラージュ」への学びではないかと思うのです。
今の日本は、明らかにパラダイムシフトの渦中です。ウカウカしていると弾き出されかねない。だから、生き残るために仕事や学業直結の勉強が優先されるのは当然かもしれません。しかし、女時に必要な学びはリスク回避だけではないはずです。次の時代をよりよく生きるための、時空間を広げて思いを巡らせる「ゆとりの学び」も大切です。
最近、「教養」や「哲学」、「対話」や「議論」の大切さを指摘する、国内外トップクラス大学の学長や教授たちの発言が目立つようです。サンデル教授の「白熱教室」人気も、その表れの一つでしょう。これらは、まさに「ゆとりの学び」です。女時だからこそ大切な学びだと思います。
少なくとも、次代を担う子どもや若者たちの学びに、そういうゆとりを確保できるように支えることが、これまでの男時の勢いをさんざん享受してきた中高年層の社会的責任ではないでしょうか。女時とは、若者に「覇気がない!」などと叱咤すべき時ではないのです。
プリコラージュの原動力は知恵です。知恵とは、知識が個性の中で時を経て、発酵して生まれる、その人ならではの旨みのようなものではないでしょうか。そこここで、知恵がプクプクと発酵しているような、そんな女時の社会と学びの場を目指したいものです。確実に、女の時にはなっているとは思いますが。