良きにつけ悪しきにつけ、情報のデジタル化が社会に与える一番のインパクトは「永遠に残り続けること」なのだなと改めて感じたのは、この夏の「ワイヤレスジャパン2010」でKDDI研究所のセミナーを聴講したときだった。ネットいじめをテーマにしたセミナーで、いまの小・中・高の児童たちの人間関係をめぐるトラブルの分析から、ケータイマナーを子どもに伝えたり、学校教師や保護者に向けて対処法を講じていくことの重要性が指摘された。
人間関係のトラブルは昔から存在する。人間が群れをなして生活する以上、避けられない問題なのだろう。
人間関係がもつれるきっかけ自体は、以前とそう大きく変わったわけではないようだ。つい言い過ぎたり誤解したりなど、ここまではよくあることである。
ただそのいざこざが起きている場が、リアルからウェブ空間になっているのが大きく違ってきている点である。ブログやプロフィールサイト、学校“裏”サイトの掲示板等に、感情に任せて言葉を書き込む。それを目にした本人が腹を立てて売り言葉を買い、さらに関係がこじれていく--とループが、今のトラブルのパターンらしい。
言い過ぎや間違いなどは、誰しも経験することである。そういった失敗に対して、これまでは「ごめんなさい」と詫びたり、誠意を持って訂正したり、言われた方も相手を誠意を受け止めたり許したりしながら再び付き合っていく中で、人間関係は修復されていた。それが自然にできていた時代は、今ほどの深刻なトラブルには発展せず済んでいたのだろう。
ただデジタル社会においては、“失敗”が記録され保存されて残り続けている以上、忘れたくてもなかなか忘れられないところに、根本的な悩ましさがあるように思える。人間の“忘れっぽい”という特徴は存外、人間関係を円滑にするための大事な特性だったのかもしれない。大人ですら文書に保存された事柄を水に流して仲良くやることは難しい。そういった高等な作法を子どものうちから身につけるのは難儀なことである。
もちろんデジタル技術、それ自体に罪があるわけではない。デジタル社会を、30年、50年生きた人が誰もいないというところで、期待と不安が入り混じるのだ。先月のコラムのように、電子教科書などの新しいデバイスやネットワーク環境が、子どもにどんな創造性や可能性を与えるのかは面白いところである。ただ、デジタル技術の進展の速さほど、人間の文化や社会や感情が迅速に変化しているわけではないということを自覚することもかたや大事なのだ。