三月は弥生、次第に堅さがゆるんでくる。ヒヤシンス、クロッカス、チューリップのつぼみが開き始め、茶灰色の地面に彩りが見え始める。桜の木もなんとなくピンク色っぽく見えてくる。二月の入学試験、三月の卒業式、四月の入学式、学びの場も悲喜こもごも、慌ただしさと安堵、期待と不安があふれている。加えて、今年は「学びのあり方」まで、ぐらぐらガタガタと揺れている。OECDの学習到達度調査(PISA)の結果が契機となり、スタートしたばかりの「総合学習」、「ゆとり教育」へのバッシングが、にわかに高まっているからだ。子ども、親、学校、社会、誰もが望み、納得する、都合のよい学びは、あり得るのだろうか。
今日3月1日、HRIの学びの場研究情報誌『てら子屋』第7号を発刊した。テーマは大きく「学びのこれから」。しかし、学びのユートピアを羨望のまなざしで仰ぐのではなく、現状を批判するだけでもなく、今号の『てら子屋』は、自ら学びの「実践」の場を持ち、その現場感覚を踏まえて主張できる方々に語っていただいた。もちろん、私自身は「総合学習」、「ゆとり教育」に大いに賛成だ。
巻頭では、動物行動学者の日高敏隆先生に、子どもを「育てる」教育ではなく、自ら「育つ」子どものための学びの必要性を説いていただいた。先生から「氏(遺伝)か、育ち(学習)か」の話をうかがっていた時にそういう話しになり、ぜひこのお話を『てら子屋』からも発信したいとお願いして実現したものだ。「氏も、育ちも」両方あるわけで、そんな問題よりも「人間という動物がもつ学習の遺伝的プログラム」と、そのプログラムが自然に実行される社会とは、という議論が重要なのに欠けていると語られた。そう考え始めると、今、方向を変えようとしている学びのあり方には、不自然さも見えてくる。
日高先生は「大人が教えすぎると、せっかくおもしろいと思ったことも、つまらなくなる。遺伝子は損になることは自らしない。学ばなくてはならないと自ら学ぶ」と言う。ちょうど、動物行動学ネタの『不機嫌なジーン』というドラマが放映中で、よくも悪くも話題になっているが、ジーン(遺伝子)にしてみれば、宿っている個体が、ちゃんと育っていないことこそ、もっとも不機嫌なことだろう。そして、ちゃんと育つためには、個体自らが、学び、遊び、働くことに、何か意味のあるおもしろさを見つけ出せるような生き方が必要になる。そんな人生の入口には、総合学習やゆとり教育が大切なのだ。ご機嫌なジーンの出発点だ。
だから、「意味の無い総合学習」ほどムダで有害なものはないというのはそのとおりだ。総合学習の時間は、先生自身が子どものようにおもしろがってワクワクするくらいでなきゃ、子どもがワクワクするわけがない。HRIで実施している「てら子屋」ワークショップでも、それは明らかだ。しかし、先生たちにも主義主張、得意不得意があって当然だ。
みんな同じやり方をしなくちゃいけないから不機嫌な人も現れる。ドリル型が得意な先生は、徹底的にムキになって子どもたちが取り組めるようなドリル学習を目指せばよいではないか。総合をおもしろがれる先生は、授業という舞台の演出家に徹して、子どもたちの自作自演の芝居を支えればよいではないか。すでに、そうしている素晴らしい先生や学校もたくさんある。学びのゴールだけは一致させて、子どもも教師も途中棄権の無いように、自分の得意なやり方で、たどり着き方は自由にしてよいではないか。自由に選べればよいではないか。私が覗き見てきた北欧の教育は、かなりそれを実現していた。そして、結果として、子どもたちが自然に自ら育っていれば、みんながご機嫌になれるはずだ。豊かな社会への転換とは、痛みを覚悟の改革よりも、自生的な現場の改善を許すゆとりからこそなしえるのではないだろうか。弱い人間なんだから、上機嫌のジーンでいられるような社会でありたい。