1週間ほど、ハワイのオアフ島に行ってきた。日本人にとってハワイと言えばあまりにメジャーなリゾート地だが、ホノルル市内から車で1時間も走れば、無造作な海岸やゴツゴツとした山々など、ワイルドな自然もじゅうぶん楽しめる。
到着の晩、地元の小学校などから集まる子どもたちのフラ・コンサートに招待された。映画『フラガール』、とはいかないまでも、日本の小学校の運動会や学芸会のような息の合ったパフォーマンスを想定して足を運んだ。ところが、子どもたちのフラは、振付もテンポも揃っていないのだ。練習したかどうかという問い以前に、「みんなで心を一つにして息を合わせて踊ろう」という意思が感じられないのが不思議だ。周囲の子どもたちからワンテンポずれている少女もそれを気にする風でもなく、楽しげにマイペースに踊っている姿が、観光者向けのフラしか見た事のない私にとっては新鮮な光景だった。
フラの先生から話を聞いてみた。「フラは元々、人間が自然の恵みをもたらす神様に感謝を表現するもの。それぞれ気持ちがこもっていれば、振りを揃えることはそんなに大事なことではない」らしい。日本の学校行事の出し物では、とにかくみんなが揃うことが重視されるけれども、土地が変われば教育方針も変わるのだ。常夏の気候、美しい自然、そして多様な人種といった条件が揃ったハワイならではの、大らかな哲学をみた。
わずかの滞在ではあったが、土地が変わることで私の生活や考え方もずいぶん影響された。例えば朝。せっかくの休暇だし、目覚ましをかけずに好きなだけ寝よう――と思っていたが、目覚ましの代わりに、照りつける太陽が私を容赦なく目覚めさせた。ビーチに面した寝室には朝6時にもなると、水平線の向こうから顔を出す太陽の光が差し込みはじめる。やがて薄いカーテンでは遮れないほど眩しくなり、『北風と太陽』の旅人のように、太陽のパワーに負けて渋々起きる生活を繰り返すうち、早寝早起きの生活が自然と身についた。「マイ」ペースではなく、ハワイという「土地」のペースに飲み込まれたわけだ。
いったん土地のペースに飲み込まれると、ガイドブック片手にセカセカと観光するより、気の向くままにビーチで泳いだり、辺りを散歩したり、トロピカルドリンクを飲みながら木陰で無為な時間を過ごしたり、という時間の使い方を志向するようになった。レストラン店員の大雑把なサービスも、時間にアバウトすぎる地元のバスも、気にならなくなった。ハワイの信号は切り替わりが早いが、クルマのドライバーは横断歩道で渡りきれないお年寄りをゆっくりと待つ心のゆとりがあるし、大きな病気を持つと言う年配ご夫婦も毎日を朗らかにいきいきと過ごされていて、とてもそんな風には見えない。
言葉としては何度聞いてもピンと来なかった、「スローライフ」とか「ロハス」といったライフスタイルの良さは、なるほどこういうものなのかと、全てがゆったりとした南国の土地のリズムに身をゆだねることで初めて、“身体化”して理解できた。環境が人間に与える影響は、実に大きい。
翻って、普段暮らしている「東京」は人々に一体何を教えているのだろう、と思うと考え込んでしまう。人工的な環境、人工的なリズムに支配されたメガシティーは、決して子どもたちに望ましいことを教えているようには思えない。自然の恵みを感じる場がほとんど無い都市環境で暮らす子どもたちに、「自然を大事にしましょう」というメッセージを発信したとして、それはどれだけの実感や説得力を持って彼らに響くのだろうか?第一、子ども以上に、大人の行動や考え方が、都会という環境から大きな影響を受けてしまっている。そのことを私は今回の旅で思い知った。知らず知らずのうちに人間に影響を与えている「土地」や「環境」という外部的な要因を、もっと真剣に捉える必要があるだろう。