元日か2日の夜、新年の最初に見る夢は、初夢と呼ばれている。
初夢に縁起の良い夢の筆頭は「一富士、二鷹、三茄子」とされ、「無事(富士)」「高き事を(鷹)」を「為す」の語呂合わせであるとする説のほか、徳川家康の隠居地である駿河の名物を並べ、家康の成功にあやかろうとしたという説などがあるらしい。いずれにしても、人々は古くから初夢の内容に一喜一憂し、初夢に良い夢をみるための数々のおまじないを生み出してきた。
江戸時代には、「お宝縲怐Aお宝縲怐vとうたいながら、枕の下に敷いて眠ると良い夢が見られるという、宝船の絵の描かれた紙を売り歩く習慣があったという。この紙にはほかに「長き世のとをの眠りのみな目覚め 波乗り船の音のよきかな」という言葉が記されており、前から読んでも後ろから読んでも同じ響きであることから、「どこから見ても良い夢が見られる」とされていたそうである。万が一悪い夢を見てしまった場合には、「夢で見たからもう現実には起こらない」と「逆夢」の解釈をした。
初夢に限らず、夢占いは古くから盛んで、夢による啓示や示唆に対して、人々は畏敬の念を抱いてきた。そして半分は怖れ、半分は楽しみながら、「夢」の内容に一喜一憂してきたのである。それでは、科学的アプローチからは、夢はどのように捉えられてきたのだろうか。
実は、夢を見る理由やその役割に関する明確な結論は、未だ得られていない。脳科学やコンピュータ・シミュレーションの領域での研究から、これまでに提起されてきた仮説としては、「夢の中で現在の問題や葛藤を発散的に処理することによって、覚醒中の生活をより適応的に過ごすことを可能にしている」というものや、「人は寝ている間に行動プログラムの作成とシミュレーションを行っており、夢はその内容を反映したものである」というものなどがある。ほかにも、「覚醒中に脳が処理した情報のうち、重要なものが睡眠中に再生され、改めて編集処理されて記憶として固定化される過程が、夢となって現れる」という説や、反対に、「記憶から消去された素材が現れたものが夢である」という説なども発表され、話題を呼んだ。最近では、「夢はある偶発的な視覚映像から出発する連想ストーリーである」という考え方も提唱されている。
「夢は行動プログラムの作成とシミュレーション中に生起するものである」という説が真実だとしたら、私たちは、夢を見ている間も何かを習得し、成長を続けていることになる。そんなことがあるはずはない、と思う一方で、私たちの成長や前進の全てが、覚醒中の記憶や意識的な思考の結果によって説明できるかと考えると、そうではないように感じる。
先人たちにとって「夢」は、未知の未来だけでなく、人間の持つ不思議な力や、うまく説明のつかない現象を捉えるための拠りどころであったに違いない。それは、科学的アプローチからの研究が着々と進められる今日も、私たちの中のどこかに活きつづけている。さあ、これから、という一年の始めに、歩き出す背中を押してくれる力を夢の中に求めるのも、悪くない。