この春、映画「ラストサムライ」が話題を呼んでからというもの、書店の店頭で「サムライ」「武士道」の文字を多く目にするようになりました。日本の文化や歴史、日本人の精神形成の由来に対する関心も、かつてなく高まっているようです。おもしろいことに、この空前の「サムライブーム」を引き起こしたのは、日本映画界ではなくハリウッドでした。日本を描いた海外の作品には、「ステレオタイプ的な描き方」や「違和感」に関する批判が寄せられることが多々あります。「ラストサムライ」も例外とはいえないでしょう。しかし、今回私が興味深いと思ったのは、この映画をハリウッドが手がけたことに対して「悔しい」「情けない」という感想を口にする人が少なくないことでした。「日本の精神を、外国人に教えられるなんて」という気持ちが、その言葉に見え隠れします。確かに、日本の文化や精神を一番よくわかっているのは日本人であるはずですし、日本人が手がければ、描かれたものに対する「違和感」は生まれにくいかもしれません。しかし私は、「外国人」だからこそ、日本人を「サムライブーム」に巻き込む映画が作れたのではないかと思うのです。
もう何年も前のことになりますが、「ラストサムライ」を観たときに似た感覚を味わったことがありました。それは、ニューヨークのメトロポリタン美術館を訪れたときのことです。美術館の前の広場で、大小の色紙に漢字を書いたものを売っている屋台に出会いました。私は、アメリカ人の、素人が書いたらしいその色紙が、かなりの高額で売られていることに驚きをおぼえました。さらに、「和」「愛」「美」といった文字に混じって「枝」という文字が飾られているのを目にし、違和感をおぼえずにはいられませんでした。日本人であったら、絶対にとはいいませんが、まず選ぶことのない一文字ではないでしょうか。「枝」という文字を美しいか、美しくないかという視点で眺めたことのなかった私は、初めてその文字を見たかのように、まじまじと見入ってしまったのでした。また、一画・二画欠けていて実際には存在しない「カンジ」や、逆さまに飾られた色紙を目にして、なんとも言えない落ち着かない気持ちを味わったこともありました。
この落ち着かなさの正体はなんなのでしょうか。認知心理学に、「人間は認知の倹約家である」という考え方があります。これは、私たちがものごとを理解するときに、自分の経験から身につけた知識や信念にもとづいて情報を単純化し、そのために使うエネルギーをなるべく節約しようとするという考え方です。日本人にとって「漢字」は日常に溢れている、あくまでも意味を伝達するための記号であって、通常の生活の中では時間をかけて鑑賞したり、成り立ちに思いを馳せたりするような対象ではありません。一方、「カンジ」が新鮮な情報であり、記号としての意味を持たない人の目には、それは一種の絵画のように映るのかもしれません。同じ「枝」という文字を見ていても、彼らには、私たちが「認知の倹約」によって失ってしまった「美しさ」や「おもしろさ」、「不思議さ」、異なった「価値」を見出すことができるのではないかと思うのです。私がニューヨークで体験した出来事は、彼らが「カンジ」に対して向けるまなざしを通して、見慣れた「漢字」をみつめなおすという経験でした。そのときに感じた落ち着かなさの正体は、同じものであるはずの「カンジ」と「漢字」との間に生じたギャップによって、私自身の「漢字」に対する認識が揺るがされたことによるものだったのです。
「ラストサムライ」が引き起こした「サムライブーム」のひみつも、この揺らぎにあったのではないかと思います。「外国人」のまなざしを通して「ジャパニーズ・サムライスピリット」を見せられた日本人は、共感と違和感の入り混じった複雑な感情を味わいました。「日本には、本当に『サムライスピリット』が息づいているのだろうか?」「そもそも、『サムライスピリット』とは一体なんなのか?」「自分の中にある信念や世界観は、『サムライスピリット』なのだろうか?」「なぜ今、『サムライスピリット』が海外で評価されるのか?」 心のうちにある数々の疑問を解消しようと多くの人が手に取ったのは、100年も前に新渡戸稲造によって書かれた「武士道」でした。「今、あらためて問う竏担AMURAIとは何か」という帯のつけられたこの本は、彼が外国人の妻メリーの疑問に応えて、日本の思想や習慣を説明する中で生まれた本であったといいます。100年前も今日も、私たちが自らを深く知ろうとするきっかけは、異なるまなざしとの出会いにあるようです。