日本の学校は、まだまだ四月スタート。ようやく学校の中も、新入生の気持ちも、落ち着いてきた頃だろうか。その学び舎の始まりの節目となる入学式、今年は東京造形大の「経験という牢屋」を語った学長のスピーチが話題となっていた。大学の授業は、一見、現実の仕事で役に立たないように見えても、自分が自分で考えること、つまり人間の自由を追求する営みであることだと知った学長自身のエピソードとして語られていた。昨今の、あまりにも「実学重視」、「現場体験重視」に偏る日本の大学教育や、大学生の求める「就職予備校」的な大学教育に対する警鐘だと私は受け取り、我が意を得たり(いいね!)と強く感じた。
もちろん、仕事をするにあたって現場の作法の習得は大切だ。しかし、そこでの経験でがんじがらめになって、ふと気づくと、飛躍できない家畜のようになってしまうということだろう。
また、東大の入学式では、「一見するとムダな時間があるような、あるいは道草のような、そうしたじっくりとした学習を皆さんには大学で行ってもらいたいと思います」と総長は説いていた。大量の知識情報を容易に短時間で効率的に収集できる情報環境下で、学びのルネッサンスへのメッセージだと感じた。
このサイトの名前である「てら子屋」の活動を1998年から10年間、私がHRIで続けてきたのも、まさに未来へ生きる力をつけるための「ムダの効用」を実証したい想いからだった。効率的な学習への異議申し立てであった。その当時、幼稚園児だった「てら子屋1期生」の子どもたちの中には、10年間毎回通い続けてくれた子も少なくなかったが、彼ら彼女らは、ちょうどこの3月に高校を卒業したはずだ。どういう進路に向かったのだろう?気になり始めた。
「てら子屋」は、子ども期にこそ豊かな関係性を広げ、未来へと生き抜いていくための学びの場づくりとして始めた。人間、社会、仕事、アート、科学、技術、自然といった、人を取り巻くさまざまなテーマでのワークショップは、「本物」「本人」「本場」の三本主義を徹底した。ある時には宇宙飛行士の古川聡さんご本人を招いた。ある時は地球の歴史と生きものの進化をテーマに、北海道の稚内に程近い中川町というところまで、小学生らとアンモナイト化石を掘りに出かけた。楽器の演奏も、火起こしも、本物本人と本場で共に楽しんだ。10年間続けた「てら子屋」に参加した子どもたちの数は、延べ1000人超。そんな経験は、子どもたちにとって少なくとも「牢屋」ではなかったと思うが、果たしてどうだったのだろう?
そして、私がプログラムをつくる時に常に考えていたのは「野性」、「感性」、「知性」の順序とバランスだった。福澤諭吉の「先ず獣心を成して後人心を養え」という教えに発していた。たくましい野性の上に豊かな感性は根付く。さらに、豊かな感性が知性を欲するだろうと思ったのだ。当時、いろいろと教えていただいていた日高敏隆先生は、「人間は、生きものとして備わっている「育つ」遺伝的プログラムがあるのだから、大人や学校が寄ってたかって「育てる」なんてこと考えちゃいけないんですよ。プログラムを壊すようなことしちゃいけないんだよ。プログラムを自然に走らせることが大事なんですよ」と煙草を燻らせながらよく仰っていた。しかし、生きものとしてのプログラムのスムースな実行は、高度文明社会、激烈競争社会の中で、ますます難しくなっている。そして、「ムダ」や「道草」はますます許されなくなっている。
HRIでは、「人と機械が理想的に調和するとは?」を研究テーマとしている。機械にできることは機械にまかせた方がいいと思う。だけど、最近話題の『機械との競争』を読むと、機械にできることが人間を上回り始めた時、人間って何をすればいいんだろう?!って思ってしまう。結局、「機械よりも人間がまさっているのは肉体労働の分野である」と言われている。肉体労働は、体の動きと知覚とをうまく組み合わせる必要がある行為だからだ。これは、機械には歯が立たない。そこに知恵を乗せていけば、未来への人間らしい活動のあり方も見えてくる。
やっぱり、人間は脳だけの生き物ではない。野性としての心身の上に、人間らしい感性が積み重ねられ、さらに知性が積まれて知恵になる。それには、ムダ、道草の多い学びが大切だと再確認できた。知性偏重、仕事の作法でがんじがらめの現代だから、学びのルネッサンスを興そう。それは、一言で言うと「アン・ラーニング(学びほぐし)」ではなかろうか。
ところで、てら子屋に通っていた子どもたちの進路だが、生き物系、映像系、アメリカ留学、認知科学、公共哲学、紛争解決、わかっただけでも多種多様な進路を自ら選び取って巣立っていったようだ。うれしい限りだ。もし、読者の中にてら子屋参加者がいたら、ぜひ近況を聞かせてほしいなあ。