「おっかしいな」
車を走り出してしばらくして、イサオさんがそう言いだす。 ニュージーランドに行ってきた。友人夫妻と、その知人であるイサオさんと僕の4人組である。僕と友人夫妻はいずれも生き物屋だ。ニュージーランドにでかけたのは、珍しい生き物を見たいがためである。一方のイサオさんは生き物屋なんかではない。当年とって75歳のイサオさんは、百姓である。この一見奇妙なメンバーの成り立ちは、友人が出入りしている山村の長老格であるイサオさんが、友人に海外に連れていけと冗談半分でせがんだことに端を発する。ニュージーランド、オークランド空港から車を走り出してしばらく、車窓からは牧場ばかりが見える。そんな光景を見て、イサオさんが首をひねったわけだった。なぜか。「だって、牛ばっかりで、どこにも畑がないじゃないか」と言うのである。牧場であるから牛がたくさんいるのは当たり前だ。でも、見えるのは牛ばかりで、家の周囲に家庭菜園のようなものさえ目に入らない。土地はいくらでもあるというのに、これはいったいどういうことかとイサオさんは何度も首をひねっていた。
イサオさんに言われて、なるほどと思う。「仕事」と「稼ぎ」の違いを、イサオさんは言っているのだ。イサオさんが日々、目にしているのは「仕事」としての活動を行う場である。イサオさんは、百姓なのだ。畑も作れば田んぼも作る。牛も飼ったことがあれば、必要に応じて家も修復し、山林作業にも従事している。つまりイサオさんの家の周囲にはそうしたさまざまな要素が混在してみられる。そうしたさまざまな要素は、人が暮らしていくためには必需のものだ。その必需の要素を目に見える範囲に用意し、実際に使い続けていくこと......自給自足を志向しての絶えざる活動......こそ、イサオさんの「仕事」である。「今の世の中なんか、下手したら米は買った方が安いぐらいだけど、それでも田んぼを耕し続ける」というのが、具体例としてのイサオさんの「仕事」だ。そんなイサオさんだから、牧場ばかりの風景に違和を感じてしまうのである。車窓から見える風景は、いわば「稼ぎ」の方便としての牧場ばかりが広がる風景なわけなのだ。
このやりとりで、僕はまた別のことを思い出すことになった。僕が関わる珊瑚舎スコーレという小さなNPOのフリースクールの卒業式のことである。スコーレの校長が卒業生に語っていた話の内容を聞いて、僕はいろいろと思うことがあったのだ。彼はそこで、「学びには二つの学びがある」という話をしていたのである。「一つ目の学びは制度に関わる学びである」と。それは例えば資格を得るための学びのことである。これは、どのようなものか、すぐわかる。では、もう一つの学びとは何か。それは、「学んだからと言って、何かの形にすぐにはならない学び」のことだと彼は言う。そして、スコーレという場は、この二つ目の学びを大事にしている場である......と。しかし、この二つ目の学びというのは、具体的にどのようなことを言うのか、少しわかりにくい。
二つ目の学びについて、やはりもう少し具体的に考えてみる。スコーレには夜間中学が併設されている。夜間中学には、70歳を超えてなお、学びたいと夜な夜な通ってくる生徒たちがいる。夜間中学の生徒たちを学校へと通わせるものとはなんだろうか。僕自身、最初は全くわからなかった。夜間中学生自身に語ってもらうと、むろん生徒によってさまざまな理由はあるのだけれど、大まかに言って「新しい自分になりたいから」というのがその理由となる(このことを知ったときに、僕はある衝撃を受けた)。この夜間中学生の語ったことこそ、二つ目の学びの具体的な例であるだろう。
「仕事」と「稼ぎ」は厳密には分離できはしない。同様、二つの学びも厳密には分離できはしない。しかし、近年、「稼ぎ」ばかりが口にのぼってはいないだろうか。同様、学校や学びを語る時、「制度に関する学び」ばかりが語られてはいないだろうか。そして、何より、そのことに違和感を抱かなくなっているのではないのではないだろうか。
「稼ぎとしての学び」ではなく、「仕事としての学び」。
珍しい生き物を見たいがために出かけたニュージーランドの地で、思いもかけなくそんなことを考え始めてしまった。