最近、私の気持ちに引っかかってくる言葉の一つに「出番」があります。出番があると、張り切っちゃう。出番があれば、金はいらない。出番のあるところに、人は集まる。などなどです。「出番」が、その人のモチベーションを奮い立たせ、やる気にさせているというわけです。そんな、人間を動かす力となる「出番」とはナニモノなのでしょう?
世の中には、人間の行動モデルを表す言葉がいくつかあります。その中で、経済学の前提とされてきた「ホモ・エコノミクス(経済人)」という人間像は、「合理的に自己の経済的な利益を求めて行動する人間」というものです。これは、近代経済の前提として置かれてきました。少々乱暴な言い換えですが、「要するに、人は金勘定で動く」という話しです。「人の心は、お金で買える」と言い切っていた人もいましたし、なかなか「そんなことはない!」と否定し切れない面もあります。しかし、それだけではボランティアなど説明がつきません。だから、経済学の世界でも、行動経済学という分野では、「経済は、感情で動く」という主張も出てきました。経済学者の友野典男さんは「勘定」から「感情」への流れを指摘しています。そして私は、その感情を盛り上げるために必要なのが「出番」の力ではなかろうかと思うのです。
「出番」が気になり始めた発端は、最近広がり始めた「コミュニティスクール」について調べ始めたことにあります。これは、地域の人たちが学校運営に関わり、地域に開かれた信頼できる学校づくりをしようという、地域と家庭と学校が一体となって進める学校運営です。このコミュニティスクールの成功と失敗の事例を調べ始めると、やはり「人」の「やる気」としか言いようがありません。地域の人たちが、しょっちゅう老若男女を問わず学校に出入りし、本気で手間ひまかければかけるほど、よりその地域らしい、よい学校ができあがっているようです。「いや、自分が役員になってしまったPTAも、しょっちゅう学校に出かけなくてはならないのに、事務手続きや雑用ばかりで学校をよくすることに貢献している実感がない」という方も多いでしょう。そのとおり、出かけた学校で何をやるかが問題です。地域の人たちが、学校の本丸であるクラスにまで入っていって、子どもたちを相手に「出番」を持つ、言い方を変えれば「子どもたちの歓びを、自らのはたらきかけによって、責任を持って生む」ということが大切なようです。だから、名ばかりの地元の名士や有名人をそろえただけの学校運営協議会は、定型どおりの議論はするけれど、活気あるアクションは生まれずということのようです。
先日、東京・中野で「おもちゃ美術館」の館長をされている多田千尋さんを訪ねて、おもちゃドクターや小学校でのビオトープづくりの取り組みの話を聞かせていただいていた中でも、「出番」を持てることの価値についてふれられていました。「毎日のように学校の脇を散歩しているお年寄りたちの中には、ほんとうは学校の中に入りたい人もたくさんいる。保護者の中にも、学校にもっと貢献したいと思っている人がいる。そんな人たちに「出番」を提供できれば、学校はよりよい学びの場になる」というようなお話です。また、総合学習で素晴らしい成果をあげている東大附属中等学校の草川剛人副校長にお話を伺った時にも、「子どもたちの学ぼうとする力は、誰かに押しつけられるものではなく、内から湧き出すもの。だから、総合学習は中途半端なことじゃダメ。自分のやりたいテーマで、自ら出かけていって、自ら出番を持って相手に伝えることを徹底してやりきることができれば、自ずと将来にもつながる本物の学ぶ力がつく」というような、具体例にもとづく説得力あるお話がありました。
やはり、「出番」の力は大きいようです。出番は、自ら見つける努力も必要です。しかし、一人だけで出番はつくれません。出番には舞台が必要です。舞台には照明、大道具、舞台装置、演出家など、舞台を支える裏方の力も必要です。もしかすると、学校という学びの場は、学ぼうとする人が「出番」を獲得することを、他の学び手や先生たち、地域の人たちもいっしょになって手伝う場「芝居小屋」なのかもしれません。そして、出番を重ねて「生きる芸」を磨き続ける。
さらに、それは「学校」だけのことではなく、働く場としての「会社」にも通用するようです。同志社大学の太田肇先生が、近著『お金より名誉のモチベーション論』で主張されていることは、まさにそういうことなのではないかと感じられ、読んでいてうれしくなりました。ところで、あなたの「出番」はありますか?